メッセージ 2000・12・10 小 石 泉牧師
旧約聖書とキリスト−U
アリス・メアリー・ホッジキン「66巻のキリスト」より
ヨハネ5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
先週は「イエス様が旧約聖書をどう見ていたか」について学びました。今週から「旧約聖書はキリストをどう語っているか」を学びましょう。これも実に驚くべき学びです。
私たちは今、キリストがすでに2000年前に現れてから旧約聖書を読んでいるのですが、旧約聖書に書かれていることはまだキリストが生まれる前に書かれているのです。そこを良く意識して読んでください。何と不思議な本でしょうか。何と大きな神の御計画でしょうか。なお、ここに出てくる預言はメシヤ預言の一部にすぎません。
創世記3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
これはアダムとエバが罪を犯したとき、神様がへびであるサタンに言った言葉です。ここで最も注目すべきことは“子孫”という言葉です。これは単数形です。この言葉は特別に世継ぎを表す言葉で、昔からメシヤを預言していると言われてきました。女の子孫という言葉も不思議です。そして、本当にイエス様は女だけ(乙女マリア)から生まれてきたのです。このようにしてイスラエル民族、さらに彼らを通して人類全体は、紀元前4000年も前、創造の最初からメシヤという一人の人が救い主として現れるという希望を与えられていたのです。
創世記22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
これはアブラハムに与えられたメシヤの約束です。ここでは明確にメシヤがアブラハムという一人の人、そこから生まれる民族の中に生まれると預言されています。ほかのどんな民族でもなくイスラエル人の中から現れるのです。
創世記49:10 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。
ここはヤコブが臨終の床で12人の子供たちに与えた祝福の言葉ですが、それは同時に12部族の運命をも預言しました。ここで判ることはメシヤがユダ族から出てくると言うことです。早くもはっきりと部族まで預言されました。ここで問題はシロというなぞめいた言葉です。シロはヨシュアがカナンの占領の時に、モーセの幕屋を置いた場所で以来エルサレムに神殿が出来るまでシロが政治的にも宗教的にもイスラエルの中心となりました。
またシロは王宮とか宮殿を表す言葉で日本語の城と同じ意味です。シロという文字をへブル語で書くと358となりメシヤも358なのでメシヤを指す隠語とも言われています。
ヨブ16:19今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。19:25私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日にちりの上に立たれることを。
これはメシヤを期待する明確な言葉です。ヨブ記は苦難の意味を問う、哲学的な文学と言われていますが、こんなにもあざやかにメシヤを待望する御言葉があるのです。ヨブはいつの時代の人かわかりませんが非常に古い時代と思われます。ここからも、旧約聖書の人々が“これから来るメシヤ”によって救いを期待していたことが判ります。(この項小石)
イザヤ9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。 9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にありその名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
来るべきメシヤは闇の中にいる人類に光を与える方でした。それは男の子であり、赤子として生まれ、すばらしい名前によって紹介されました。
イザヤ7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。
その子は処女から生まれる! 何という不思議な言葉でしょうか。恐らくこれを書いたイザヤでさえ何だか判らなかったことでしょう。イザヤはアルマーと言う言葉を使っていますがこれは若い女性、特に未婚の女性を表しています。
民数記24:17 私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。
ここには星が現れることが書かれています。それが文字通り星だったとは誰も思わなかったことでしょう。博士たちをベツレヘムに導いた不思議な星のことまでも。
ミカ5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。マタイ2:6
その生まれる場所も決まっていました。ですから東の国の博士たちが来たとき、ヘロデの質問に答えて学者たちは直ちに生まれるのはベツレヘムですと答えています。
イザヤ60:3 国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。マタイ2:11 この個所をホッジキンは博士たちの事としています。事実彼らは王位にあるものだったようです。
エレミヤ31:15 主はこう仰せられる。「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている。」マタイ2:17,18
その後に起こったヘロデの幼児虐殺まで聖書は預言していました。悲しい母の声。
ホセア11:1 イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。マタイ2:15
この言葉などは当時の人々はイスラエルの出エジプトの話で、まさかメシヤの預言とは思わなかったことでしょう。しかし、イエス様が事実エジプトに行って、帰ってきているのであまりにも厳密な神の設定に驚くのです。
イザヤ11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
エッサイはダビデの父、その子はユダ族の一氏族エッサイの家族から生まれるとまで預言されていました。そしてここにある「若枝」という言葉はへブル語のNatserですがこれがナザレという地名の語源になったという学者がいます。(ただし旧約聖書ではナザレという地名は出てきません。)
その子はベツレヘムで生まれエジプトから帰ってくる。そしてナザレ人と呼ばれる。一体そんな複雑な生い立ちがなぜ設定されたのでしょう。それはメシヤが“誰であるか”を間違えないためでした。こんな生い立ちは生まれる前に設定できるものではありません。当時も今もわれこそはメシヤだという輩は沢山います。その中で誰が本当に預言のメシヤかを確認するために、とうてい通過不可能なハードルを神様は設けたのです。この複雑な障害物をすべてクリアーした人こそメシヤだよと教えておられるのです。イエス様はそのずべてをクリアーされました。だから誠実に旧約聖書とイエス様を比べればイエスこそキリスト、ヨシュアこそメシヤだと結論するはずなのです。事実、何年か前にイスラエルの大学教授が新約聖書と旧約聖書を読み比べると、イエスはメシヤだと結論せざるを得ないという本を出し、イスラエルでベストセラーになったそうです。しかし、それも消されてしまいました。ユダヤ人という人々がイエス様をメシヤと認めないのは聖書に対して誠実ではなく、かたくなだからです。
イザヤ42:1〜4 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。マタイ11:29
イザヤ11:2 〜10その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。
何という王でしょうか。何という国でしょうか。これは人類の夢、希望のすべてを語っているといっても過言ではありません。人間はこういう王、支配者を切望しているのです。しかし、選挙のたびごとに人々の期待は裏切られるのです。しかも、この王のもたらす平和は単に人間社会だけではなく自然界まで変えてしまいます。弱肉強食は失われます。
そんな国はいつ来るのでしょうか。それはまだ来ていません。あの方がもう一度来るまで待たなければなりません。最初に来られたときは謙卑の僕として来られました。今度来るときこそ、これらの預言は実現します。マラナサ。主イエスよ来りませ。(続く)