メッセージ 2000 Feb.6 小 石 泉 牧師
信仰は奇跡を産む
(今回のメッセージは前半で前の会堂が建てられた証しをしました。それを忠実に再現すると非常に長くなり、また書く方も大変なので、すでにそれを詳しく書いてある小冊子にまかせて、核心部分だけ記録することにします。)
私たちの前の会堂は奇跡によって生れました。そしてその会堂を基に、一昨年の暮れに現在のところに新会堂を建てました。前回は200万円未満だったのですが今回は総額で1億3千万円になりました。全ては全能者なる神の手によって成されたことです。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」ヨハネ14:12〜14
「私の名によって求めることは何でも、それをしましょう。」口語訳では「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。」
これはイエス様のお約束です。しかし、多くの場合私たちはその事実を経験しないのです。私たちの教会は本当にその御言葉を経験してきました。そして、無から会堂を与えられました。その基になった御言葉はマルコによる福音書11章にあります。
「翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。『今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。』弟子たちはこれを聞いていた。」11:12〜14
「夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。『先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。』イエスは答えて言われた。『神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』」11:19〜24
何と奇妙なイエス様の行動でしょうか。マルコはここでいちじくのなる季節ではなかったと言っています。それにもかかわらずイエス様はいちじくの木を呪ったのです。何と理不尽な行動でしょうか。いちじくの木が物を言えたらきっと「イエス様、それは無理です。私でも季節には実を実らせます」と言うでしょう。
イエス様はここで、あることを教えようとしていたのです。それは次に言っている言葉です。「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、その通りになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」つまりイエス様は信仰について教えているのです。ちょっとむちゃくちゃな感じがするのですが、それ以外には考えられないのです。季節に実を実らせるのはあたり前です。しかし、信仰があるなら季節でなくとも実を実らせることが出来るのだと言っているのです。信仰があるなら山に向かって海に入れと言ってもその通りになる。信仰は不可能を可能にする。そうです無一文で始めた私たちの教会もこのような教会を持つことが出来ました。誇りたくて言っているのではありません、ただ御言葉に従ったらそうなったと言いたいのです。1+1が2になるのに信仰は要りません。1+1が3にも4にも100にも1000にもなるのが信仰です。
さらにもう一つの信仰の秘訣について学びましょう。それは伝道の書にあります。
「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」11:1
パンを水の上に投げる。何と奇妙な言葉でしょうか。ある青年にこの話をしたら、それは魚にえさを与えることでしょうと言いました。しかし、そうではないのです。信仰の歩みの中では時には全く無駄で、なんの意味もないと思うようなことをしなければならない時があると言うことです。神様の思いは私たちの思いとは違います。私たちは時には全く理解できないことをしなければならないこともあります。それらをいちいち神様に理由を尋ねても答えてくれません。それはそうでしょう私たちには全てのことが判るわけではないのです。牧師として時々こういう場合がありました。そんな時、黙って従順に従ってきてくれる信徒がいるのは心強いのです。牧師自身が判らないで行動することもあります。神が要求されたら理解できないままで従う心が必要です。さらに神様の祝福を受けるもう一つの秘訣を学びましょう。これも驚くべき言葉です。
「『さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。』彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。『水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。』彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。『一口のパンも持って来てください。』彼女は答えた。『あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。』エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。」T列王記17:915
エリヤは偉大な主の預言者でした。彼の言葉によってイスラエルに3年間雨が降らず、飢饉になりました。神様はエリヤをからすで養い、その後異邦人のやもめに養わせました。彼はザレパテ(口語訳)のやもめのところに行きました。彼女の家にはもう食料が尽きかけていました。びんに少しの油と、かめの一握りの粉だけでした。彼女は2.3本の薪を拾ってそれで最後のパンを子供たちに与え共に死のうとしていたのです。エリヤは先ず自分にそのパンを持ってくるように言います。考えてもご覧なさい、エリヤにとってどんなにつらい事だったでしょう。おなかを空かせた子供たちのパンを自分が食べなければならないのです。エリヤにしてみればむしろ子供たちに食べさせて、自分は見ていたかったことでしょう。しかし、この一見恥知らずな行動も神が要求されたのです。エリヤは従順に従いました。その日から使っても、使ってもびんの油とかめの粉は無くなりませんでした。
神を第一とする時、奇跡は起こります。このような話は実は今でも良くあることなのです。私は韓国とアメリカの方からそういう話を聞きました。
「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」ルカ6:38
これも秘訣です。そしてそれは神様にも通じることです。神様は物に不足していません。天地万物は神のものであり何かを捧げてもらわなければ困るわけではありません。しかし、わたしたちがどんなに神を愛しているかを知りたいのです。昔のポンプで水を汲み出すことを思い出します。しばらく使わないでいるとポンプは水を上から注がないといくら取っ手を押しても水は出てきません。同じように神の祝福もこちらの決心、覚悟が示されなければなりません。偶像でさえ人々は多くのささげ物をするのです。まして神様には多くの祝福に対して感謝がなければなりません。神様はけちな方ではありません、人間から借りるのもお嫌いです。ですからスプーンで捧げるとスコップで、スコップで捧げるとダンプカーで返して下さると良く言われる通りです。
言い換えれば、神様は祝福したいのです。御自分が祈りに答える方であることを知らせたいのです。しかし、わたしたちがなんの犠牲も払わず安全地帯に身を潜めてただ祝福を待ち望むのを願っておられないのです。私たちに対する神の祝福は「まちぼうけ」のように安易にやってくるわけではありません。
「あなたのうちの男子は皆あなたの神、主が選ばれる場所で、年に三度、すなわち種入れぬパンの祭と、七週の祭と、仮庵の祭に、主の前に出なければならない。ただし、から手で主の前に出てはならない。」申命記16:16
「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」マラキ3:10
わたしを試してみよ。神様はそう言われました。ただしこれは、神に選ばれた民に対する要求です。まだ本当に神様が判らない方々はむしろ捧げてはなりません。
とにかく、私たちの教会はこうしてやってきました。ただ、神のみ見上げて、人を頼りにしないで。これからもそうします。そして更に大きく発展させていただきましょう。