メッセージ 2000・12・ 3 小石 泉 牧師
旧約聖書とキリスト
アリス・メアリー・ホッジソン著「66巻のキリスト」より
(この本は聖書全巻の中にあるキリストを教えるものです。原作者は1860年イギリスに生まれ、1955年95歳の長寿を全うされた女性の聖書教師で非常に霊的な方でした。訳者は明治、大正時代に日本のキリスト教会にその敬謙な人となりで尊敬を受けた笹尾鉄三郎先生です。訳文は文語で今の人には理解できないと思われるので私がこれを参考にして組み立てました。)
皆さんは旧約聖書を読んで「つまらないな」とか「難しいな」と思ったことはないでしょうか。創世記に始まるモーセの五書でもレビ記あたりからさっぱり判らなくなって、つい読むのをやめてしまうと言うことはないでしょうか。先日も祈りの時にホセア書を読んでいると「こんなことが今の私たちに何の意味があるのだろうか」と思いました。その時にふと、本棚にある上記の本を手に取りました。そして少し読むだけで私の心は燃えて来たのです。この最初の章でホッジキン師は“旧約聖書をイエス・キリストはどう見ていたか”と言うことを書いています。内容の多くはすでに知っていることなのですが、改めて指摘されるとなるほどとうなずけるのです。
“あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。”ヨハネ8:56
この本が書かれた当時、聖書の「高等批評」という論議が盛んでした。それは聖書、特に旧約聖書のほとんどを、実際にはもっと後代のものであって、内容も神話に過ぎず実際にはなかったものだというように否定し、聖書をずたずたにしていました。しかし、イエスさまはアブラハムを実際にいた人、聖書は真実な書物として受け入れられていました。さらにアブラハムが自分を見ていたといっています。アブラハムを初めとする旧約聖書の信仰者たちは、これから来るメシヤ、ヨシュア(イエス)を信仰によって見ていたのです。旧約聖書の聖徒たちは未来に現れるキリストによって救われ、私たちはすでに来られたキリストによって救われるのです。ですからユダヤ教とキリスト教の対立という考え方は実はおかしいのです。すべてはイエス・キリストによる救いですから、あるのはキリスト教だけなのです。
“もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。”5:46 ダビデに関しても同じように自分を救い主として見ていることを指摘しています。“イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのならどうして彼はダビデの子なのでしょう。」”マタイ22:43〜45
主イエス御自身のこれらの言葉は私たちが旧約聖書の中にキリストを尋ね求めるべきことと、旧約聖書そのものが真実な書物であることを十分に証明しています。キリストが真に神でありかつ真に人であることを信じる私たちにとっては、上の御言葉はこれらの事柄に関して権威をもって明らかに示すものです。もしアブラハムがかりに神話的な人物ならば主は決して“あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。”などと言うはずがありません。
主がモーセのご五書を引用されたときにはそこに特別な力を込めて語られたのです。何かのついでにモーセの五書のある言葉に言及されたというような事ではなくて、主の議論の全精力が「モーセ」をただある巻の書名とするのみでなくその巻に載せた歴史上の活動人物として、またその中に掲げられた律法の記者として認めておられたのです。
“もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。”ヨハネ5:46〜47 “モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。”7:19
また、主はパリサイ人らが自分たちの言い伝えに従って神の言葉を軽んずる事を責められました。(マルコ7:13)さらにらい病人に言われました。 “「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」”マタイ8:4 イエス様はモーセの律法に忠実であるように言われたのはそれが偽りではなく本当に神の言葉であり、そのまま残されていることを確認しておられたのです。
イエス様はサタンとの戦いにおいて旧約聖書の御言葉を用いられました。
“さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。”マタイ4:1〜11
『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』『あなたの神である主を試みてはならない。』『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』この3つの言葉はそれぞれ申命記の8:3、6:13,14,16を用いておられます。主はサタンを撃退するのに神である御自身の栄光を顕わされないで、また私たち人間が到底用いることができない御力を発揮されないで、さらに御自分の比類無き権威を用いられもしないでただ旧約聖書の御言葉により頼まれたのです。それは私たち人間が、この大敵に立ち向かうことができることをお示しになるためでした。ある不信仰な批評家たちは申命記はヨシュア王の時代の作であって、当時非常に大きな改革が必要だったのでこれをモーセの書と偽ったのだと言いました。もしそうなら、真理そのものである主が、そのような不真実極まりない“申命記”を受け入れてサタンと戦う緊急時に用いるはずがあるでしょうか。この書がもし偽物であったなら、偽りの父(サタンのことヨハネ8:44)はそれをよく知っていたのですから退くはずがありません。
キリストが公に伝道を始められたとき、ナザレの会堂でイザヤ書を渡されそれを読まれました。“それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」”ルカ4:16〜21
主はイザヤ書を文字通り信頼し、自分のことを書いていると宣言されたのです。また、山上の垂訓の中でも聖書を保証しておられます。
“わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。”マタイ5:17〜19
主は旧約聖書の中の20人の人物を引用し、19巻の聖書を引用しておられます。人間の創造、婚姻の成立、ノア、アブラハム、ロト、ソドム、ゴモラの滅亡、モーセ、マナ、十戒、らい病のきよめ、銅の蛇、などなどです。そしてしばしばこう言われました。「〜とあるのをまだ読んでいないのですか」「〜と書かれています」「聖書は廃棄されるものではありません」「聖書はわたしについて証しているのです」「〜と書かれているのは私の上に成就するのです」。また復活の質問にはこう答えておられます。
“しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。”マタイ22:29〜31
そして十字架に掛かられる前にも次のように言われました。
“さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。”ルカ18:31“
あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた。』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」”22:37 そしてゲッセマネの園でも(マタイ26:31、53、54、マルコ14:48、49)十字架の上でも旧約聖書から語られました。さらに復活の後にもエマオの途上で二人の弟子に語られたのも旧約聖書からでした。“するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。”ルカ24:25、27
驚くべきことにイエスキリストは御自身が救い主であることを証明するのにも、死からの復活よりも聖書の御言葉で立証されたのです!
また11人の弟子に現れたときも“「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。”ルカ24:44〜48 と言われました。そればかりか何と未来においても、黙示録でさえも主は旧約聖書を引いておられます。1:17、18 3:7などです。このように主イエスは旧約聖書の上に生まれ、育ち、サタンに勝ち、働かれ、十字架に掛かられ、復活され、永遠に支配されるのです。それは私たちがすでに知っている御言葉によっているのです。