メッセージ 2000・11・19     小 石 泉 牧師

希 望

先週開かれた教団の牧師研修会でロベル・キャリー先生によって素晴らしいメッセージが伝えられました。その中で私が特に心に響いた言葉は「希望」でした。それは最近の日本に一番無いことだと思われたからです。今、日本には希望があるでしょうか。若者は希望を持っていません。一番希望に満ちているはずの彼らはその場限りの刹那的な快楽に身を委ねたり、逆に失望して自分の中に閉じこもったりしています。中年は失業や破産によって自殺します。老人はむしろ一番幸せかも知れません。しかし、聖書には希望が満ち溢れています。

“こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。”1コリント13:13

ここで「こういうわけで」と書かれているのはコリント13章の有名な愛の章の言葉です。それは私たちが主イエスに会うことの希望についてです。クリスチャンの希望とは神と御子の居る国で生きる永遠の命に基づいています。しかし、それは死後の世界に関わるだけではなく、人間の本能的な疑問、人はどこから来てどこに行くのかを解決した者が必然的に持つ希望を表しています。この希望は救われたものの人格の中の至る所に、にじみ出るのです。
一方でこの世の人々はこのような希望が持てません。だから有名な最高裁の判事がその死の直前に書いたように「人は死んだらゴミになる」などという言葉が出てくるのです。死んだらゴミになるなら生きているときも、やっぱりゴミなのではないでしょうか。最高の知識人がこのような言葉を語れば若者はどこに希望を持てるのでしょうか。

それは正しい信仰によるのです。キャリー先生は次の御言葉から判りやすい実例を教えてくれました。
“さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。”へブル11:1(口語訳)


キャリー先生の奥さんは一年に一度クリスマスの日だけおいしいケーキを焼いてくれるそうです。おそらく健康を考えての事でしょう。さてキャリー夫人がケーキを作る準備を始めるとキャリー先生はキッチンに立って夫人が粉をふるい、ミルクや砂糖やエッセンスやチョコレートを加えてかき混ぜるのを見ています。期待に胸は膨らみ、オーブンで焼けるのを待つのは大変エキサイテイングなことでしょう。正にキャリー先生は「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認」しているのです。
希望はすばらしいものです。人は希望なしでは喜びを持って生きることは出来ません。神様は人間の希望について深い関心を持っておられます。

“わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。”エレミヤ29:11

人間には希望が必要です。神様は希望を与えると約束されます。考えてみるとこれは不思議な言葉です。どこの神があなたがたにわざわいではなく将来と希望を与えるなどと言うでしょうか。法隆寺の弥勒菩薩に祈る人はこのような言葉を明確に受け取るでしょうか。ガンダーラの釈迦涅槃像は私たちに将来を与えるでしょうか。なぜ聖書の神はこんな約束をしなければならないのでしょうか。なぜ人間に自分から良き事をするのでしょうか。それは自分が創造し、私たちを荷っておられるからです。この希望は、実は最初はユダヤ人に与えられたものでした。

“私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでおります。王よ。私は、この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです。”使徒26:7

しかし、ユダヤ人がメシアを拒絶した結果異邦人なる私たちに与えられました。

“昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。”ローマ15:4

パウロ先生はさらにユダヤ人が持っていた希望は不十分なものだったと言っています。

“一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、・・律法は何事も全うしなかったのです。・・他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。”へブル7:18〜19

「律法は何事も全うしなかった」この言葉をよく覚えてください。最近、キリスト教会の一部ではユダヤ人のほうが優れているというメッセージが語られるようになりました。私たちは「さらに優れた希望」が与えられました。それはキリスト・イエスによる、罪の許しと贖いによる永遠の命です。この希望は空想や口約束ではありません。

“もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。”ローマ15:19

“この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。”5:5

聖霊が保証です。神の愛が事実を示します。

“あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。”1ペテ1:21 そして “約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。” ヘブル10:23

“しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。” 3:6

“そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。”6:11


私たちはこの希望を告白し、誇りとし、確信を持ち続けます。しかし、そのためには忍耐が必要です。決して気楽に与えられるものではありません。

“忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。”

ローマ5:4 “忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。”


上は新改訳、下は口語訳です。練られた品性、練達どちらが適切な訳なのでしょうか。どちらにせよ私たちは忍耐によって品性が生まれ、忍耐によって希望が生まれることを覚えましょう。それは時には迫害や無理解という姿を取ります。そして、それは希望を持った私たちがその理由を説明する機会となります。

“いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。”Tペテロ3:14〜15

希望。確かさを持って。私たちの中に。