メッセージ 2000・11・12    小 石 泉 牧師

全焼のいけにえ

先週の地区集会でレビ記の1章から「全焼のいけにえ」について学びました。口語訳聖書では燔祭と書かれているこの奉げ物は牛や羊を焼き尽くして奉げるものです。これは献身を意味しています。私は自分が会社を辞めて献身したときのことを思い出していました。それはとてもつらい決心でした。せっかく就職してこれからと言うときでした。先の保証はなく、自分がその仕事に向いているとは到底思えませんでした。目の前は真っ暗でした。  
今また、私の息子が同じ道を歩もうとしています。やはり会社を辞めるには大きな迷いと決心が要ることだったと思います。私は有名なアブラハムが奉げるはずだった燔祭について考えずにはいられませんでした。

“これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。アブラハムは朝早く起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。”創世記22:1〜14(口語訳)

アブラハムとは「多くの人の父」と言う意味です。しかし、アブラハムは99歳になるまで子供がいない男でした。だからイサクを与えられたときどんなにうれしかったことでしょう。彼のまれに見る忠実な信仰はいつしか鈍って行きました。神は自らを「妬む神」と呼んでおられます。神はアブラハムに試練の時を与えます。イサクを奉げよ。何と過酷な試みでしょうか。人は自分を奉げるほうが子供を奉げるより楽なものです。しかし、アブラハムはこの試練に答えます。彼は本当にイサクを奉げようとしました。
どうしてこのような事になるのでしょうか。それは、神は愛だからです。愛は全てを求めます。神は、時間は7分の1。金銭は10分の1。しかし、愛は100%を求めます。
あなたは神様に愛されています。では、あなたはどれほど神様を愛していますか。アブラハムはイサクを実際には奉げませんでした。しかし、このモリヤの地、エルサレムのゴルゴタで神は御自身の御子を私たちのために下さいました。その御子イエスを信じてあなたは救われました。その時、あなたはあなた自身をどうしましたか。

“それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。”マタイ16:24〜26

神を信じるとき自分を捨てることを要求されるとは思いませんでした……と言われますか。人は神とこの世とを両方持つことは出来ません。プラットホームと走り出す汽車の両方に足を掛けていることは出来ないのです。そしてこれは実は最も豊かで安全で易しい道なのです。中途半端は一番危険です。

“天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。”13:44〜46


昔、イスラエルの地は長い歴史のため黄金や宝石などが畑から出てくることが良くあったそうです。すると人は何気ないふりをしてその畑を買い取りその宝物を掘り出したのです。そのためには自分の全財産をはたいても惜しくなかったのです。また、真珠は日本で養殖が始まる前は最も高価な宝石でした。それも持ち物を売り払うほど価値のあることでした。あなたは主イエスの救いと言う宝物を買うのにあなたの全てを売り払うことができますか。と言ってもそれは心の態度のことです。あの金持ちの息子のように悲しみながら立ち去りますか?

“イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」”マルコ14:3〜9

この地方では水は非常に貴重なものですからお風呂に入る習慣はありません。それで女性は香油を体に塗って体臭を防ぎました。このナルドの香油は高価で300デナリ、約300万円もしたとユダは計算しています。それはこの女にとって大変な価値のあるものだったでしょう。しかし、この女は何かを奉げたかったのです。彼女の出来る最善をしたかったのです。それで大切にしていたナルドの香油の入ったアラバスターの瓶を割り惜しみなくイエス様の頭に注ぎかけました。それは誰に薦められたのでもなく、脅かされたのでもなく純粋に自発的な行為でした。
神は何かに不足しておられることはありません。人から何かを取り上げなければならないわけではありません。しかし、人は神に奉げます。その時、自発的なことが最も重要です。そしてそれは心からのものであり。心のこもるものであるべきです。献金の場合、お賽銭とは違うのです。あなた自身の心の表われなのです。

“律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。”マルコ12:28〜34


「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」それが私たちの生き方です。神と共に生きることは神に全てをささげることです。どれぐらい神様を愛していますか? まあ、そこそこに、まあ、適当に、あまり生活に支障がないぐらいに、ですか? もう一度言いますが、これは心の問題です。神を愛する心の態度、心の温度です。

“「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。”黙示録3:15〜16


神様はあなたに全焼のいけにえを求めておられます。それは動物の場合は群れの中の最上のものです。しかし、人間はみんな最上のものなのです。人間は絶対に互いに比較できないものです。アブラハムはイサクを選ぶことはしませんでした。イサクしか居なかったからです。神の目にあなたは高価で尊い奉げものなのです。