メッセージ 2000・11・5 小 石 泉 牧師
なおりたいのか?
“その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。” ヨハネ5:1〜9
「よくなりたいのか」(口語訳聖書では「なおりたいのか」)とイエス様は病人に言われました。病人が直りたいのは当たり前です。しかし、この男は的外れな答えをします。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」 それは当時、このべテスダの池には天使が降りてきて水をかき回すときに最初に入った者の病が癒されるという伝説があったからです。彼には病が癒されることより池に入ることが目的になっていました。このような錯覚は私たちにも起こります。私たちは自分が何を求めているのか、自分自身で確認し正確に神に伝える必要があります。
“彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。”マタイ20:29〜34
「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」(ダビデの子とはメシヤの意味)二人の盲人は必死に叫んでいました。今、このチャンスを逃したら、私たちは一生の間暗闇に住み続けることになる。彼らはこの時点ではまだ盲人であったのです。その願いも信仰も周りにいる健常者とは比較にならないものでした。イエス様は答えられました。「わたしに何をしてほしいのか。」「主よ。この目をあけていただきたいのです。」なんと明快な答えでしょうか。彼らは自分たちの置かれている状況、そして、それに対する主イエスの答えを完全に把握していました。それにしても「私に何をしてほしいのか」というイエス様の質問に注目してください。あなたは、あなたの問題、あなたの必要、あなたの期待をこのように明快に主に答えられますか。
“イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。すると、彼らの目があいた。”マタイ9:27〜30
この個所は前の個所と非常に似ているのですが他の福音書によると20章の場合は盲人は一人だったようです。おそらくマタイの記憶違いでしょうが、このような間違いはむしろ事実の確認になります。偽りを捏造したのならそういう間違いは起こりません。(前後関係は前の個所が後になります。)
さて、ここでイエス様は盲人たちに「わたしにそんなことができると信じるのか。」と聞いています。それに対して盲人たちは「そうです。主よ。」と答えています。すると「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われました。何とも単純明解。簡単なことに見えますが、なかなかこうは行かないのが実情ですね。今はイエス様が地上におられた時のようには癒しも奇跡も起こらないのですが、イエス様は、“まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。”ヨハネ14:12 と言っておられますから、私たちはもっと期待して良いのです。
「わたしに何をしてほしいのか。」「わたしにそんなことができると信じるのか。」「あなたの信じた通りになるように。」こうして私たちはもっと神から、直接的に、簡明に、祈りの答えを期待していいのです。ただ、もちろん次のことには注意してください。
“だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。”マタイ6:33
どんな賜物より、癒しより大切なのは神御自身を求めることです。またそれは今のように大袈裟な見世物的な大集会ではなく小さくて素朴なキリストとのマンツーマンの応答からやってきます。だから
“狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。”マタイ7:13〜14
という原則を忘れてはなりません。
さて、このようなキリストとの出会いでも人によってはまったく違った応答をする場合もあります。
“それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」イエスは彼らに「行け。」と言われた。すると、彼らは出て行って豚にはいった。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。”マタイ8:28〜34
ここでも主は大いなる業をされました。恐ろしい悪霊つきの男が二人も墓場に住んでいる村を考えてご覧なさい。女性や子供たちは恐ろしくて道も歩けなかったことでしょう。そのような凶暴な鬼のような男たちが癒され、普通の人になったのです。穏やかな顔付きになって。しかし、町の人々はそのことより豚の被害を優先しました。本来、イスラエルではモーセの律法によって豚を食べることはもちろん飼うことも許されていませんでした。
それでおそらくはこのガダラ地方の異邦人が飼っていたのだろうと言われています。確かに2000頭もの豚を失うことは大変な損失でしたでしょう。考えても見てくださいガリラヤ湖に浮かぶ2000頭の豚の死骸! 彼らは悪霊を追い出して下さった方に感謝しないで富の失われたことを嘆きました。「歴史の全ての時代に、世界は豚を選び主イエスを拒絶した」(レバートフ) 私たちもイエス様を選ばないで豚を選ぶことはありませんか?
祈りのとき、イエス様にお会いしたとき正確にあなたの必要を語りましょう。イエス様は言われます。「なおりたいのか?」「わたしに何をしてほしいのか?」「わたしにそれができると信じるか?」「はい、主よ私はこうしていただきたいのです。」そして「あなたにはそれがお出来になると信じます」。どうか全能の主を豚と交換しないで下さい。
エピソード「陶器師」
先日、仲の良い牧師先生たちと合宿をしました。いろいろなことが話し合われ、楽しいひとときを過ごしました。その中で特に教えられたことがあります。それは敬愛する三坂先生の証でした。三坂先生は最近生まれて始めて陶芸をしたそうです。その時、非常に大きな学びをされたと言います。それはエレミヤ書の有名な話に関してです。
“主からエレミヤにあったみことばは、こうである。「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。それから、私に次のような主のことばがあった。「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。・・主の御告げ。・・見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。”18:1〜10
ここは一般には、神様が私たちを自由に扱われること、創ることも壊すことも御心次第だと受け取られてきました。ところが三坂先生が実際に粘土を扱って判ったことは、粘土と言うものはそれぞれ個性があって、その性格を無視しては良い製品は作れないと言うことでした。たしかに信楽焼、萩焼、九谷焼などみんなその素材にあった製品、味わいがあります。神様も私たちの性格を無視してむりやりに御自分の意志を押し付けるのではなく、わたしたちの素質性格に合わせて、もっとも適した作品を作られるに違いないと言うことです。そしてさらに、自分が作った製品はたとえどんなに貧しいものでも、どんなものよりすばらしく、美しく見えると言うことです。だから「あなたは高価で尊い」と言われるのですね。