メッセージ 2000・10・29  小 石 泉 牧師

心の目を開いて

“どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。”エペソ1:17〜23

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」何と壮大で、威厳に満ちた言葉でしょうか。何と驚くべき言葉でしょうか。一体、ここに言う教会とは何を指す言葉でしょうか。それは今、我々の見ているささやかな会合を指しているのでしょうか。そうだとすると余りにもギャップがありすぎます。まるで誇大妄想的な言葉と言われても仕方がありません。
ここでパウロ先生は先ずキリストが歴史の過去、現在、未来の全てに渡って最高の権威を神に授けられたと書いています。そしてそのキリストが満ち満ちている場所が教会だと言うのです。もし不信仰な人々がそれを聞いたら笑い出してしまうでしょう。特に日本ではそうでしょう。それではそういう教会とはどこか別のところにあるのでしょうか。これは現実の教会ではなく天国にある完成された教会のことなのでしょうか。実は私は最近までそう考えて来ました。そう教える教師も沢山います。
私は現在ある教会に対する不満や失望を沢山聞いてきました。「こんな教会は…駄目です」「この教会は…です」。あるいは牧師に対する批判、失望。それらは決してわがままな言葉ではなく本当に悩んでいるケースも多いのです。たしかに未熟な指導、至らない人格、失敗、愛の無い集会、満たされない礼拝、貧しい会計。数え上げたらきりがありません。それでもこれがキリストの御体。満ち満ちておられるところなのでしょうか。
パウロ先生は冒頭で「神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって」と言っています。先々週のメッセージを思い出してください。エリシャを捕らえに来た大軍を見た僕のためにエリシャが祈りました。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」その時彼の目が開かれエリシャの周りにいる無数の天使の軍団が見えました。これが神の知恵と啓示の御霊と考えて良いでしょう。僕にはそれまで全く見えなかった世界が、実はすぐそばにありました。もし、私たちにも同じようなことが起こって心の目が見えるようになると「神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか。」が見えてくるはずです。その結果、今ある教会が実はキリストの御体であり、キリストが満ち満ちたところであることがみえてくるはずです。つまりここに描かれている栄光の教会は、実は私たちの見ている現実の教会の中にあるのです。それは肉の目では見えないのです。
パウロ先生はクリスチャンの中には二種類の人がいると言っています。

“さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロに。」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。”Tコリント3:1〜7

すなわち 御霊に属する人と肉に属する人です。コリントの教会は論争を始めていました。“「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。

キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。”1:12〜13

彼らは霊の目ではなく肉の目で信仰を見ていました。だからキリストではなく使徒たちを見て分裂して行ったのです。全く同じ事がいつも教会にはありました。ほとんどの場合肉の目しか私たちは持ってなかったと言っても言い過ぎではないでしょう。どうしたって目に見える人々を見てしまうのです。
しかし、ダビデは霊の目で見ることの出来る人でした。第一サムエル記24章と26章を読んでください。自分を殺すために大軍を率いて来たサウル王を殺すチャンスが二度もあったにもかかわらず彼は殺しませんでした。すでに神に不従順になり信仰を失っていたサウル王でした。部下のアビシャイはその場で殺すことを勧めましたがダビデは「主に油注がれた」王を殺すことを恐れたのです。ダビデが畏れたのはサウルではなく神でした。同じ事が教会にも起こります。自己弁護と思われるかもしれませんが、あえて言わせていただけば、牧師を批判し失望する人は牧師と言う人間だけを見ているのです。牧師を畏れる人々は牧師を畏れているのではなく、牧師を召して立たせている神を畏れ敬っているのです。私はこう言う方々を知っています。そして深く尊敬しています。同じように兄弟姉妹に対してもつまづきや不満が出てきます。これは実にひんぱんに起こります。とりわけ救われたばかりの人は霊の目は開かれていません。しかし、覚えてください神に油注がれた人を敬う人は、神が報いを与えられます。だからと言ってダビデはサウルのそばに居続けたのではなく逃げていましたから、どうしても駄目なら逃げることも出来ます……。
もう一つの霊の目について考えましょう。

“わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』”マタイ7:21〜23

私にはこれが正に現在起こっていると思えて仕方がありません。いわく○○ブレッシング、△△リバイバル、XXクルーセード、癒しの大会、奇跡の集会。私がこれらの多くが悪霊によるものだというと、小石は聖霊の業を悪霊の業だと言っているから聖霊を冒涜していると言われます。しかし、悪霊の業を聖霊の業と言うのは聖霊を冒涜していないのでしょうか。

“ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。” 1コリ12: 3

とあるにもかかわらず「主よ、主よ」とイエス様を呼んでいる人々がいます。その上、彼らは「主イエスの名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟をたくさん行なった」のです。しかし、主イエスは「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と言われます。霊の働きをなんでも聖霊の働きと思ってはなりません。今は精密な目が必要になります。どれが神の霊によるのか、どれが悪霊によるのかはっきりと見極めることが非常に重要です。こういう事にいいかげんな信仰はどんな結果を見るのか恐ろしいです。もちろんだからと言って全ての奇跡や癒しや大きな働きを否定してもいけないのです。
さて、私たちは肉の目で教会や牧師を見ることをやめましょう。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。信仰の目で教会を見ましょう。毎週わくわくするような期待を持って集まりましょう。敬虔な畏れの心で礼拝に出ましょう。兄弟姉妹や牧師を見るのではなくその人々の後ろでその人々を愛している神様と主イエス様を見ましょう。今までのような肉の目でなく心の目、聖霊による新しい目で見るならば、何かが起こります。何かすばらしいことが始まります。アーメン主イエスよ来たりませ私たちの教会に。