メッセージ 2000・10・22 小 石 泉 牧師
エルサレムの新しい神殿
イスラエルで大きな騒乱が起こっています。元もとの原因は過激派リクードの党首シャロンがイスラムの聖地、岩のドームのある区域(ユダヤ側では神殿の丘という)に100人の部下とともに押し入ったことでした。これはイスラエルの一部の人々のいらだちを表しています。1948年にイスラエルは独立しました。その後、多くの戦争によって現在の国境が出来ました。しかし、肝心のユダヤ人の希望であるエルサレムの神殿建設はいつになるとも判りません。それどころかエルサレムもまだパレスチナと分割しています。
一般常識から言えばイスラエルの言うことは目茶苦茶です。2000年も経ってからここは自分たちの土地だから明け渡せと言われても、すぐには「はい、そうですか」とは言えません。しかし、イスラエルは絶対に新しい神殿を建てるでしょう。その部材はすでにアメリカのフロリダに完全に準備されているということです。
ところでモーセの幕屋はエルサレムには建てられたことはなく、シロ、ノブ、ギベオンなどに建てられていました。エルサレムの神殿は今までに3度、ソロモン、ゼルバベル、ヘロデによって建設されました。今、ユダヤ人が自分たちの聖域としている嘆きの壁はヘロデの神殿の外壁だと言われています。現在のイスラエルの力から言ってこんなに貧しい聖域は我慢がならないのです。その壁の上には正妻であるサラの子イサクの子孫の神殿ではなく、妾ハガルの子イシマエルの子孫のモスクが建っているのですから。
ところで聖書にはもう一つの神殿が書かれています。その神殿はまだ建ったことがありません。ただ、詳細な設計図が書かれているのです。それはエゼキエルの神殿です。
“私たちが捕囚となって二十五年目の年の初め、その月の十日、町が占領されてから十四年目のちょうどその日、主の御手が私の上にあり、私をそこへ連れて行った。すなわち、神々しい幻のうちに、私はイスラエルの地へ連れて行かれ、非常に高い山の上に降ろされた。その南のほうに町が建てられているようであった。主が私をそこに連れて行かれると、そこに、ひとりの人がいた。その姿は青銅でできているようであり、その手に麻のひもと測りざおとを持って門のところに立っていた。その人は私に話しかけた。「人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ。」そこに、神殿の外側を巡って取り囲んでいる壁があった。その人は手に六キュビトの測りざおを持っていた。その一キュビトは、普通の一キュビトに一手幅を足した長さであった。彼がその外壁の厚さを測ると、一さおであり、その高さも一さおであった。”40:1〜5
エルサレムの近郊には「非常に高い山」はありませんからこれは幻の中の山だったのでしょう。エゼキエルは当時バビロンに居ましたから、彼は幻のうちにエルサレムまでつれて行かれそこで新しい神殿の幻を見せられたのです。その詳細については是非これ以降の章を読んでください。なかなか素人にはイメージできない、文字で書かれた設計図ですが。
さて、この神殿には神の栄光が満ち、神が永遠に住むと言われました。
“主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。ある人が私のそばに立っているとき、私は、神殿からだれかが私に語りかけておられるのを聞いた。その方は私に言われた。「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。”43:4〜7
すると新しいエルサレムの神殿には神の栄光が宿り、神が永遠に住まわれるのでしょうか。新約聖書には私たちが神の神殿だと書かれています。
“あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。”Tコリント3:16
またこの地は永遠には続かないことは判っています。だからこのエゼキエルの神殿は霊的な意味で考えるべきなのでしょうが、聖書の預言はしばしば二重三重の意味があり、今度の神殿もこの設計図に基づいて実際に建てられるかもしれません。
さて、この神殿には外庭がありそこには東西南北に門がありました。そしてその門には不思議な決まりがありました。王以外の人々は入った門から出てはならないのです。
“君主がはいるときには、門の玄関の間を通ってはいり、そこを通って出て行かなければならない。しかし、一般の人々が例祭の日に主の前にはいって来るとき、北の門を通って礼拝に来る者は南の門を通って出て行き、南の門を通ってはいって来る者は北の門を通って出て行かなければならない。自分のはいって来た門を通って帰ってはならない。その反対側から出て行かなければならない。”46:8〜9
「入った時と同じ門から出てはいけない」何と奇妙な決まりでしょうか。私はこれには別の霊的な意味があると思います。私たちは毎週教会に集まります。私たち自身が神殿ではありますが、キリストの御体としての教会を確認するために集まるのです。キリストが愛されたのは個人でもありますが第一義的には教会です。私たちは一人一人がキリストの御体である教会の細胞なのです。
“夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。”5:25〜27
このように教会は真実の神殿です。この神殿に集まるとき私たちは「入った門から出てはならない」のです。私たちは来たときと同じ状態で帰るべきではありません。私たちは救われ感謝の生活を送ってはいますが、生きている以上、時には疲れ、問題を抱え、悩み、苦悩して教会に来ることもあります。そんな時、もし教会に来ても帰る時、同じように問題を抱え悩みの内に帰るとしたなら教会は存在する意味がありません。
“教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。”エペソ1:23
教会には神の栄光が満ち、キリストの全てがあるのです。教会はあなたの霊と魂の必要すべての補給基地です。それが無いとしたら教会か、私たちに問題があるのです。教会はあなたが期待を持って集まるときそれに答えるものがあります。あの長血を患っていた女はイエス様の御衣のふさにさわりさえすれば自分は癒されると信じていました。そして、その信仰通りに癒されました。イエス様は「あなたの信仰があなたを癒したのです。」と言われました。私たちが期待した分だけ満たされます。
“わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。”詩篇81:10 とあります。
教会には癒し、慰め、励まし、力、助けがあります。イエス様ご自身が教会は自分だと言っておられるのです。どうぞ大きな期待を持って教会に集まってください。そして受けとってください。来たときのままで帰ることの無いように。新しく創造されて帰ってください。お風呂屋さんでさえ行った時と帰る時では違うではありませんか。
“私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。”哀歌3:22〜23
神様の恵みは毎朝新しいのです。さて、この神殿からは不思議な川が流れ出します。
“彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか。」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。”47:1〜12
この神殿の敷居の下から水が流れ出し、それは1000キュビト毎に足首、ひざ、腰、ついには泳げるほどの深くなって死海に流れ下るとあります。しかし、エルサレムは海抜600メートルにあって三方が崖になっていますから、4000キュビト、約2000メートルも川が流れるはずは無いのです。そうするとこれは現実のことではなく幻、または霊的な意味なのでしょうか。しかし、アラバ、エン・ゲディ、エン・エグライムという現実の地名、明らかに死海と思われる海の水質の変化、周辺の湖沼への細かい言及などを見ると現実のことのようにも見えるのです。不思議ですが今の私たちには判らないこともあります。しかし、これを新約の私たちに当てはめるなら、私たちの教会から生ける水が流れ出し、全てを清め、全てを生かして行ってほしいのです。私たちの教会から聖霊の流れが、周りに、日本に、世界に流れ出てほしいものです。
そのためにも毎朝、主に期待して祈りましょう。毎週、主に期待して教会に集まりましょう。新しい神殿に。