メッセージ 2000・10・15 小 石 泉 牧師
私たちとともにいる者
今朝、ちょうどコスモスが生けられています。この可憐な花がコスモスというのも不思議な名前です。ギリシャ語では宇宙を表します。ラテン語ではユニバースですがこれが英語の宇宙になりました。聖書の中に「万軍」と訳されている言葉があります。英語では、Host、へブル語でツァーバと言います。この言葉は神の創造された全ての物、神の周りにいる天使の軍団、イスラエルの集団など沢山あるものを表す言葉です。
“こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。”創世記2:1 “430年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た。”出エジプト12:41 “「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」”イザヤ6:3
宇宙には私たちの知らないことがまだ沢山あります。聖書はそのことを語っています。
“天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。”詩篇19:1〜6
昔の人は星空や太陽を見るとき今の私たちには判らない神の創造の業を読み取ることが出来たのではないかと私は思っています。事実、星座の名前は今のようなギリシャ神話の名前に変えられる前に神の御業や救い主を表すものだったということです。そして私は宇宙人は信じませんが宇宙にはなんらかの命と霊的な存在が満ちているように思うのです。
“そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。”ヨブ記38:7
さて、万軍と呼ばれる天使の集団は神と御子の周りにいるだけでなく、私たちの周りにもいるのです。
“この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。”詩篇34:6〜7
天使というと一般には小さな羽の生えた赤ちゃんのような姿を描きますが、私が聖書から読む限り天使のもっともポピュラーな姿は軍人です。これらの天使は時々地上に目に見える姿で現れます。たとえばソドムとゴモラを滅ぼした二人の天使。ペテロを解放した天使などです。時には天使の乗り物だけが現れますがこれは単に天使の姿を省略したのでしょう。預言者エリヤがエリシャと別れて天に昇った時がそれです。
“こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。
エリシャはこれを見て、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んでいたが、彼はもう見えなかった。”列王U2:11〜12
エリヤは死なないで天に昇った二人目の人です。最初の人はアダムの子孫エノクでした。これらの人々は人間なのに生きたまま天国に今住んでいます。何と不思議なことでしょうか。何と神に信頼され愛された人々でしょうか。まるで天使のようであり天使以上なのでしょう。このエリヤとエノクはまもなくエルサレムに現れるという聖書学者が多くいます。これは黙示録11章に出てくる二人の「全地の主のかたわらに立つ2本のオリーブの木」と言われる預言者のことですが、一般にはエリヤとモーセといわれています。しかし、モーセは死んだと書かれているところからでしょうかエノクという人も多いのです。さて、前に出てきた詩篇34篇の御言葉を思い出してください。
“主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。”
とありました。そのことが事実であることが判ったことがあります。
“アラムの王がイスラエルと戦っているとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」そこで、イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。彼が王に警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めなさい。人をやって、彼をつかまえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる。」という知らせが王にもたらされた。そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。”列王U6:8〜17
イスラエルの敵だったアラム(現在のシリヤからイラク辺りまでに住んだ民族でイスラエル人もアラムの出身)の王は自分たちが立てた計画がイスラエルに筒抜けになることに怒り、誰がイスラエルに通じているのかと家来に尋ねました。するとそれはスパイのせいではなく
イスラエルの預言者エリシャのせいだと言うものがありました。アラムの王は大軍を送りエリシャの居たドタンの町を囲みました。早朝起きたエリシャの僕は町を囲む大軍の剣や槍や鎧兜のきらめく光景に度肝を抜かれます。彼は震える声でエリシャを起こし「どうしたらいいのでしょう」と尋ねました。するとエリシャは「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言いました。
そして、エリシャが主に「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」と祈ると、主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていたのです。この大軍は盲目にされ簡単にイスラエルの王に捕らわれます。王は喜んで彼らを殺そうと申し出ますがエリシャは許さずご馳走をして返します。これによってアラムの軍隊は二度とイスラエルを襲うことはありませんでした。
このような天使の守りは私たちにもあるのでしょうか。
今から20年ほど前のことです。静岡県の掛川市というところで伝道していたボストロムという宣教師から不思議な話を聞きました。ボストロム先生が最初に伝道を始めたのは掛川市から天竜川をさかのぼった天竜市でした。(当時は町といった)天竜市は天竜川の両側に高い山のある渓谷の町です。先生と奥さんが町を歩いていると、その山々の峰に沢山の天使の集団が現れたというのです。先生は驚いて隣の奥さんに「君は僕が見ているものが判るかい?」と聞きました。すると奥さんは「ええ、天使の群れですね」と答えたそうです。ボストロム先生は柔和、寛容、自制、忍耐、清さを持ったすばらしい方でした。掛川市で立派な働きをされ地域にも良く知られ、愛された方でしたが10年ほど前に癌で亡くなられました。その後、息子さんが跡を継がれまた立派な証を立てています。
私たちはアブラハム、モーセ、ダビデ、エリヤ、エリシャのような偉大な人物の記録を読むとき自分にはとうていこのような道は歩めないしこのような奇跡は体験できないだろうと思います。しかし、意外に聖書に書かれた奇跡は多くの人々に現れるものなのです。そして何よりも“主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。”という詩篇の御言葉があるのですから私たちの周りには無数の天使が守りの体制を取っているのかもしれません。それにはいつも「主を恐れる」者でありたいのです。神をあなどる人やかたくなで自己中心な人は、神様は助けようにも助けることが出来ません。
クリスチャンには二種類の人が居ると思います。一つは自分の助けとして主を求める人。もう一つは自分を主に明渡す人です。これは非常に微妙な違いですが実はとても大きな違いなのです。前者は自分が中心です。自分のために神が居るのです。悪く言えば神を利用する人です。後者は自分を捨てて神のご意志に任す人です。この二つの信仰者がたしかに教会にはいるものです。両方ともクリスチャンですが、人生の決算の時に受ける報いは大いに違うことでしょう。あなたはどちらですか? 天使の軍団はどちらが助けやすいでしょうか?