2000・9・24     小 石 泉 牧師

神は居るのか

人間の持つ疑問のうちで最も根源的な疑問は一体神は存在するのかというものでしょう。パスカルはその著書「瞑想録」(パンセ)の中でこう言っています。
「これこそ、わたしが見て、心をなやましていることである。わたしはあらゆる方面をながめて、いたるところに不分明しか見ない。自然は疑惑と不安との種でないような何ものをも、わたしにあたえない。もしわたしがそこに神性をしめす何ものをもみなかったならば、否定的な結論に達したであろう。もしわたしがいたるところに創造主のしるしを見たならば、信仰に安住したであろう。だが、否定するにはあまりに多くのものと、確信するにはあまりに少ないものとを見て、わたしはあわれむべき状態にある。」
パスカルは、人間は自然を見ただけでは神を完全に認識出来ないし、だからと言って神を否定するにはあまりにも不思議なことが多すぎると言っているのですが、これは一般的な人々の感想でしょう。私はこの一節に出会ったとき目からうろこが落ちたような気がしました。なぜならキリスト者は聖書の次の言葉からそうではない結論を導き出しているからです。

“神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。”ローマ1:18〜23

ここでパウロは人間は自然を見ただけで神が判ると断定し、そうでない状況を断罪しています。ところが実際にはパスカルの方が事実に即しています。パウロは間違っているのでしょうか。聖書が間違っているはずはありません。パスカルは別の個所で人間は堕落して楽園を追われてから神に対して盲目になったと言っています。すなわちパウロが言うのは神に創造された人間本来のあるべき姿であり、パスカルが言っているのは人間の現実の姿です。人間の中にはこの本来のあるべき姿に極めて近い人々も居て自然を見ただけで創造者を認めるものです。特にそれは幼児の場合顕著です。水族館に行くと一生洞窟の中で生きている魚を見ることが出来ます。このような魚は目が退化して無くなっているのです。稚魚の時にはちゃんと目があるのです。しかし、真っ暗な洞窟の中で成長するに連れて目は必要でなくなり別の器官が発達して来ます。人間も同じようなものです。
神学的にはこれを自然啓示または一般啓示と呼んでいます。人々は夜空の星を見ては不思議だと思います。医者は人体の絶妙な構造を見て不思議に思います。だからと言ってその人々が直ちに神を認めるには至りません。人間にはもう一つの啓示が必要なのです。それは特別啓示、または聖書啓示と呼ばれるものです。いわば神を知るには二つの眼鏡が必要なのです。一般にはこの二つ目の眼鏡が欠けているのです。
人間はエデンを追われてから神を見失いました。歴史の四大文明と呼ばれるメソポタミア、エジプト、インダス、中国に栄えた文明の一つとして聖書の言う創造主なる神を信じていませんでした。これは北米のインデアン、南米のインカ、マヤ、アンデス、日本、東南アジア、北欧などの文明も同じでした。ただユダヤ人とキリスト教だけがこの知識を子孫に伝えてきました。(イスラム教に関しては極めて似ているが、かなり誤差があって聖書の神と呼ぶことは出来ない。)
人は神など居ないと言います。それでいておびただしい偶像を作って拝みました。それは擬似神です。人間は全く神を否定しては生きて行けないのです。また欧米において神など居ないというとき、その「神」とはなにかと聞けば聖書の創造主なのです。いわゆる無神論は「聖書の神は居ない」という思想です。そこにはやはり神という概念があるのです。それ以外の国々では漠然とした神概念が擬似神を無数に作り出しました。
古来、人間はそれぞれの民族固有の神々を持っていました。そして、その民族が滅びるとその神々も滅びました。ギリシャ、ローマの神々はオリンポスの山から姿を消しました。エジプトの神々は王の墓の中に共に葬られています。メソポタミアの神々はすでに砂漠の砂の中に跡形もありません。カンボジアのジャングルの中でクメールの神々は木々の根に侵食されています。南米の神々は無数のいとけなき幼子の犠牲の骨と共に消え去りました。特にインカの場合はその神々の託宣が滅亡の原因となりました。海から来る神の使者と言う伝説がなかったらインカ帝国はあんなにも簡単にコルテスら略奪者の前に屈服しなかったでしょう。
しかし、日本は2000年間、外国の侵略は受けなかったためにその神々は命脈を保ちました。蒙古軍の侵略は幸運にも滅亡には至らなかったし、第二次世界大戦後の占領軍は歴史上まれに見る寛大な軍隊でした。皮肉なことに、もし、マッカーサーが自らを神の使いと信じる少し傲慢な信仰者でなかったら、日本は丸裸にされていただろうし、その神々は一掃されていたでしょう。森総理の「日本は天皇中心の神の国」と言う発言はそういう目で見ると実にこっけいです。乱暴な言い方ですが、早い話、この先もし日本列島が巨大な地殻変動で海に沈んでしまったら、あるいは日本が数百個の原水爆で人っ子一人いない完全な焼け野原になってしまったら「日本の神々」はどこに行くのでしょうか。
だから「日本の神」と言う言葉自体がその空しさを表しているのです。地域に限定される神など本当の神ではありません。天地を創造した神と、一地域に依存する神と比較になるはずがありません。聖書はこう言っています。

“天地を造らなかった神々は地の上、天の下から滅び去る”。エレミヤ10:11

神はいるのかいないのか。そういう議論自体が極めて不遜で馬鹿げたものですが、神を知るには生まれつきのままの能力では人間には不充分です。このことをイエス様はニコデモという人との会話の中で教えています。

“さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。”ヨハネ3:1〜11

「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」神の国に入ると言うこと、すなわち神を知ることは生まれつきのままではなく、新しく生まれる、「霊的な新生」を体験しなければならないと言う意味です。
2000年前にニコデモは賢い学者でしたがこの言葉がわかりませんでした。そして現代のクリスチャンでない人々も同じようにわかりません。そのような人々がもう少し自分のことについて深く考えるなら、そして心から神を信じられる人々がいるということを不思議に思うならその人は自然啓示から特別啓示への道を見出すでしょう。
ある人々はこう祈りました。『神よ、もしあなたが本当にいるなら、私にあなたを示してください。』そして神に出会いました。ここに秘訣があります。それは人が自分以外の何者かに呼びかけたと言うことです。神とはほかならぬ絶対的な『あなた』なのです。『私』という存在が『あなた』というだれか大きな存在に気がついたときそれは特別啓示の入り口です。神はいるのか。少なくともこれは人生で解決しなければならない重大な問題です。いるかいないかはどんなに譲ってもFifty,Fiftyです。50%の確率は決して少ないものではありません。今日、雨の降る確率は50%だと天気予報が言ったら洗濯物を干すでしょうか。傘を持っていかないでしょうか。微妙なところです。しかし、事はあなたの人生の価値を決定づける事なのですから真剣な検討が必要です。『神などいるものか。』というにはあまりにも不思議な世界ですから。