メッセージ 2000・9・3 小 石 泉 牧師
熱心党のシモン・イスカリオテのユダ
熱心党のシモンと言う使徒は次の使徒の名簿以外には全く出てきません。
“熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。”マタイ10:4
“次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、”マルコ3:18
“マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、”ルカ6:15
“彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。”使徒1:13
熱心党、へブル語でゼロテ党と言われる団体は今で言うところのイスラム原理主義のような過激なユダヤ教の一派でした。これは当時の宗教派閥、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派に次ぐ第四の宗教派閥でした。パリサイ派は律法に厳格で復活を信じ、純粋。サドカイ派は復活を信じず、現世的でした。エッセネ派は死海のほとりクムランに僧院を構え、どちらかというと隠遁生活を送っていました。このクムランから20世紀になっていわゆる死海文書が出てきたのです。バプテスマのヨハネはこの派で育てられたと考えられます。熱心党は過激で闘争的でした。この派の中には短刀(シッカ)を持った暗殺団(シッカリ)もいました。シモンは恐らくその一員だったと考えられます。
使徒たちの多くがイエス様に対してイスラエルを復興する英雄としてのメシヤを期待していたことは今までにも指摘しましたが、このシモンなどはその最たるものでしょう。彼らの多くが、主がピラトの質問に「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」ヨハネ18:36と答えられた事を聞いた後、主の復活の後でさえ「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」使徒1:6と聞いているのです。彼らが主イエスの最初の来臨の目的が罪の清めによる心の王国を建設することだと理解したのは実にペンテコストの日、聖霊を受けてからでした。シモンはその中に止まっていました。シモンは三年半の主との交わりのうちに変えられて行きました。そして彼は復活の後に聖霊に預かりました。彼は暗殺者から、人々に永遠の命を告げる人に変えられました。
AD73年。死海のほとりマサダの要塞に立てこもった1000名の熱心党員たちは15,000(30,000ともいう)のローマ軍の包囲に対して3年間戦い、ローマがこの孤立した大地に壮大な橋(土塁)を掛けて突入したとき、その前に全員が刺し違えて死んだと言うニュースをシモンが聞いたときどんな気持ちがしたことでしょう。彼はそのとき60歳ぐらいだったと思われます。彼はその後ペルシャに伝道し殉教したと伝えられます。
イスカリオテのユダほど人間の歴史上悲しい人はいません。
“さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。”マルコ3:13〜15(口語訳)
ユダはイエス様に選ばれた使徒でした。それにもかかわらず彼は歴史上に裏切り者の代名詞として記録されました。彼はイエス様から
「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」マタイ26:24
と言われています。何と悲しい言葉でしょうか。
私たちは「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」1テモテ2:4
とあるから、滅びる人は居ないのだと思ってはなりません。人間の中にはユダのように救い主を目に見、3年半も行動をともにしてもなお滅びに至る人も居るのです。ユダを反面教師として畏れの心を持っていなければなりません。
さて、イスカリオテと言う言葉の意味は現在正確には判っていません。ヒエロニムスはイッサカルの子孫だと言います。また南ユダヤのケリオト村の出身だと言う説もあります。これですと北部ガリラヤ出身者が多かった弟子の中で孤立したことが説明できると言います。しかし、これも確かではありません。またラテン語でシカリウス、へブル語の暗殺者シッカリの意味だとも言われます。そうだとするとシモンと同じ思想の持ち主だったことになります。しかし、彼はシモンにはない邪悪さを持っていました。それは金に対する執着心でした。
“マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。”ヨハネ12:3〜6
マリヤの美しい行為を直ちに金に換算するユダの心はいつも金に対する関心に満ちていたのです。そしてヨハネは晩年の著書である福音書の中でユダがイエス様の伝道団の会計係でありながら金をごまかしている人間であったと証言したのです。しかもこの時、ユダはイエス様を売る相談を持ちかけ金を受け取っています。彼の心を満たしていたのは金への思いでした。これは現在でもサタニストの特徴です。
“そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。”マタイ26:14〜15
イエス様は早い段階でユダの裏切りを予知しておられてユダに悔い改める機会を与えていました。
“イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」”ヨハネ6:70
最初のころは、ユダはイエス様の御心にかなった人でした。彼は会計係を任されるほど信頼されていました。最後の晩餐の時にもイエス様からパンをスープに浸して与えられるほど近く居ました。しかし、彼の心には悪魔が入ったのです。
“さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。”ヨハネ13:15
イエス様は弟子たちを極限まで愛されました。 悪魔の入ったユダの足さえ拭いておられたのです。しかし、この直後にイエス様はユダの思いを指摘しました。ユダは悔い改めずにイエス様を売ろうと出かけたのです。
“彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え。」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。
ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。”13:27〜30
こうしてユダによって導かれた祭司長たちの一隊がゲッセマネの園に来ました。
“イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。だが、イエスは彼に、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」と言われた。”ルカ22:47〜48
「ユダ、あなたは口づけで私を裏切るのですか。」信頼と愛のシンボルである口づけでユダはイエス様を裏切りました。悲痛なイエス様の言葉。一体、ユダはどうしてここまで堕落したのでしょうか。全ては金です。彼をサタンに売ったのは金への執着心でした。そういうと純情なクリスチャンは、大変だ私の貯金は間違っているのだろうかなどど心配します。私たちが子供の学校や家の新築や病気や老後のためなどの将来に備えて蓄えるわずかな貯金など富とか財産とは言いません。それは生活費です。そうではなく金を人生の目的とするような心の状態が問題なのです。英語で金はマネーと言いますがこれはマモンという偶像の名前からきました。これは恐らく悪霊の名前です。マモンに捕らえられていたユダはイエス様が捕らえられたとき我に帰りその金を返しに行きました。
“そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。”マタイ27:3〜5
何とも悲しい哀れな結末です。救いのない終わり方です。しかし、ユダはヨハネが
“ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。”1:14
と言ったイエス様とともに歩み、その多くの奇跡と愛に触れ、自分も愛されたにもかかわらず、裏切りをもってしか答えなかったのです。彼はこのようなイエス様の姿を見ながらこの世しか見ることの出来なかったのです。このような心を持った人々は今でもたくさんいるではありませんか。私たちも時にユダのような心を持つかもしれません。そのような時にサタンの誘惑を受けないように、ユダを覚えて行きたいものです。