メッセージ 2000・8・13    小 石 泉 牧師

バルトロマイ・マタイ

“ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、”マタイ10:3
“次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、”マルコ3:18
“すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、” ルカ6:14
“彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。” 使徒1:13


 これらはマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書の使徒の名簿です。しかし、バルトロマイとは「トレマイの子」という意味です。バルとは子です。そうするとこれは本名ではありません。では一体バルトロマイとは誰なのでしょうか。それは聖書に書かれているのでしょうか。一方、ヨハネの福音書にはバルトロマイと言う名は一度も出てきません。その代わりナタナエルと言う名前が出てきます。

“シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。”ヨハネ21:2


これは使徒名簿ではありませんが書かれている他の人々はみな使徒です。それで多くの学者はバルトロマイとナタナエルは同一人物なのではないかと考えています。彼の本名はバルトロマイと呼ばれているナタナエルだったのではないかというのです。これは大いにあり得ることです。

“ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」”ヨハネ1:44〜51

これはナタナエルが主イエスにあった時の記録です。2000年も前のことなのにまるで昨日あったことのようにあざやかです。ピリポは友人のナタナエルに会いに行き、すぐにイエス様をメシヤだと紹介しました。しかし、ナタナエルの反応は冷ややかでした。ガリラヤの寒村ナザレから何の良いものが出るだろうか。それに聖書にはメシヤはベツレヘムから出ると書かれている。しかし、「来たりて、見よ」というピリポの確信に満ちた言葉にナタナエルは動かされて会いに行きました。するとイエス様の方から「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」と言う言葉が投げかけられました。ナタナエルは驚きの内にイエスに言いました。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
これは不思議な言葉です。一体、いちじくの木の下にいたと言われただけで、なぜナタナエルは「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と認めたのでしょうか。
いちじくは杉の木のように垂直には成長しません。枝を水平に伸ばし広い葉ですずしい木陰を作ります。イスラエルの人々はそこで憩いました。ナタナエルはいちじくの木の下で神に礼拝を捧げていたのです。それは誰も知らないナタナエルだけの秘密でした。いや一人だけそのことをご存知の方がおられました。それはナタナエルが礼拝を捧げていたその方です。だからナタナエルは即座にあなたは神の子です。あなたはイスラエルの王(王は大文字でメシヤのこと)ですと言ったのです。あなたもいちじくの木の下を持っていますか? あなたと神だけがご存知の、神との接点、秘密の通路、ホットラインを持っていますか?
 こうしてナタナエルは主の弟子になったのだと考えられます。この時期、アンデレとヨハネがバプテスマのヨハネに「世の罪を取り除く神の子羊」を言われてからアンデレはペテロに、ヨハネはヤコブに、ピリポはナタナエルにメシヤを伝えました。そしてその全てが使徒となったと考えても決して間違ってはいないと思います。
それにしても主イエスから「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」と言われたナタナエルとはどんな人だったのでしょうか。旧約聖書を読むとイスラエルはほとんど全時代を通して神の選びを誇り、神に逆らい、傲慢、無礼な行いをしてきました。そのような人々の中にも「本当のイスラエル人」と呼ばれるナタナエルのような人がいたのです。「その心には偽りがない。」なんと美しい言葉でしょうか。神を騙すことは出来ません。神は騙されるような方ではありません。神が愛されるのは、何かが出来ることではなく、また立派な行いでもなく、神の前に偽りのない、正直な心なのです。ダビデはそのような人だったではありませんか。ナタナエルもそのような人でした。しかし、「あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます」と言う言葉がいつどんな風に成就したのかは判りません。
ナタナエルはその後インド、アルメニア、ルカニヤ、メソポタミア、ペルシャに伝道して、伝説によるとアルメニアで殉教したと言うことです。
 次にマタイを見て行きましょう。

“そののち、イエスが出て行かれると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた。それから、レビは自分の家で、イエスのために盛大な宴会を催したが、取税人やそのほか大ぜいの人々が、共に食卓に着いていた。ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。”ルカ5:27〜32(口語訳)

 この個所は次の個所と見比べるとマタイの召命のところだと判ります。

“イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。”マタイ9:9

レビという名はイスラエル人にとって名誉な名前でした。それは十二部族の内で神に仕える祭司の部族の名でした。しかし、マタイがその部族だったという証拠はありません。他の部族でもそういう名前の人は聖書の中に出てきます。マタイ(神の賜物)と言うのはイエス様がつけた名でした。それでマタイはその福音書の中で自分のことをマタイと書いているのです。他の使徒たちはレビと呼んだのでしょう。
ところで、収税人とは実に不名誉な職業でした。彼らは当時の支配者ローマに仕え同国人から税金を取り立てる仕事だったのです。だから彼らは収税人や罪人と呼ばれ、売国奴、人殺し、盗賊、人間の屑と扱われていました。裁判の証人となることも礼拝出席も出来ませんでした。一方で彼らは自分の裁量で税を課すことが出来ました。ですからこれは確実に儲かる職業でした。レビは同国民から受ける尊敬や名誉よりも金を選んだのです。金が全てだ。金さえあればいいのだ。
しかし、そういう日々の中で彼の心には金では満たされない空しさ、失望が成長していたのでしょう。そんな時、彼は一人の人のうわさを聞きました。その人は美しい人格の人で、奇跡を行うという話でした。彼はザアカイのようにその人を見たいと思っていたことでしょう。そしてその人は来て彼に呼びかけたのです。
「わたしについて来なさい」。すると彼は立ち上がって、イエスに従ったのです。彼は全てを捨てました。ペテロやヨハネはその気になればもう一度その職業に戻ることが出来ましたがマタイは一度捨てたら二度と戻れない仕事でした。彼は自分の決意の表明として大きな宴会を開きました。親族と友人に自分がこの方に従うことを知らせ、蓄えた巨額の富を貧しい人々に施し、新しい人として生きることを宣言したのです。しかし、この宴会を見て快く思わない人々がいました。「すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。『なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか』」。なんだあの男はメシヤだと言いながら収税人の客になっている。そんな程度の人間なのか。そこで、イエス様は答えて言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」 イエス様の言葉には皮肉が込められています。ここの正しい人、罪人というのは自称です。自分を正しいとする人には救いはありません。聖書は言っています

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」ローマ3:10〜12

自分は正しいと思っている人は案外多いものです。しかし、自分には神の前に立つ資格はない。自分は全く罪人だと言う人こそイエス様がその人のために来られたのです。どうぞ自分をしっかりと見つめなおしてください。
マタイは主とともに歩み、その生涯を書きました。とくに彼はユダヤ人にメシヤの到来を告げる福音書を書きました。マタイの福音書の冒頭にある人名の記録は旧約聖書と新約聖書を結びつける連結器です。これがなかったらイエス様は旧約の約束のメシヤであると言う意味がなくなります。またマタイはその文中に65回、旧約聖書から引用しています。その後、エチオピア、マケドニア、シリア、バルテア、ペルシャ、メデアなどに伝道し殉教したとも自然死したとも伝えられています。