メッセージ 2000・7・30    小 石 泉 牧師

ア ン デ レ

今市市にある関東祈祷院は、美しい渓流の上にあり静かな杉木立の中にあります。しかし、建物はオウムのサテイアンよりひどく管理棟はぼろぼろのバラックです。そのすぐそばに川崎市の太陽幼稚園のすばらしい施設があり一層貧しさが引き立ちます。帰ってきて目にしたリバイバル新聞の統計によれば日本のプロテスタントの平均教会員数は69名、礼拝出席数は34名でそれぞれ総人口の0.43%、0.21%とありました。なんと人口の0.21%。カトリックを入れても恐らくあまり変わらないでしょう。無きに等しい数ではありませんか。天と地を創造された神を信じるものがわずかに0.2%とは何と悲しい事実でしょうか。ここ20年ぐらいリバイバル、リバイバルと叫び続けてこの現実です。だから私は何とかして現状打破を計りたくて本を書いています。
さて、今日はアンデレについて学びましょう。アンデレはバプテスマのヨハネにイエス様を「神の小羊」と紹介されるとすぐに兄のシモンに言いました。

“ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。”ヨハネ1:40〜41

「私たちはメシヤに会った。」何と率直で単純な言い方でしょうか。これは重大な発言なのです。イスラエル民族はアブラハムの約束を信じてその方を待ち続けてきたのです。それまでにも幾人もメシヤかという人々が現れました。しかし、ことごとく違っていました。しかし、アンデレは断固としてシモンに言いました。その方が来たと。その後、彼はガリラヤ湖のほとりで主イエスに召されて弟子となります。彼は使徒の中で指導的な立場に立ったり、決して目立つ人ではありませんが、不思議に主のお役に立つ人でした。

“イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。”ヨハネ 6:5〜11

この有名な五つのパンと二匹の魚で男だけで5000人を養った場面で、ピリポとアンデレの姿勢の違いがはっきり見えます。あとからピリポを学ぶ時判るのですが明らかにアンデレはピリポに比べると頭の切れる人ではありません。イエス様は最初ピリポを試されました。5000人もの人をどうしたら養えるだろうか。ピリポはごく常識的な答えをします。瞬時に計算して、パンを200デナリ、200万円買ってきても足りないでしょうと答えます。私はクリスチャンになって40年になりますがクリスチャンの90%の人がこのピリポ型の信仰を持っていると思います。計算しては当然足りないのです。しかし、アンデレは違いました。彼は少年のお弁当である五つのパンと二匹の魚を主の元に持ってきました。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大勢の人々では、それが何になりましょう。」それが何になりましょう、と口では言っているのですが彼は何かの期待を持っています。イエス様の元にもって行けば、何かのお役に立つかもしれない。彼自身、まさかそんなに小さなものが5000人以上の人を養うことになるとは考えていませんでした、しかし、漠然とした小さな期待を持っていました。こんなものでも、何かのお役に立つかもしれない。
信仰とはこういうものなのです。計算では足りません、だから駄目ですと言うのが常識です。しかし信仰は次の段階、次の段取りは神に任せます。小さな期待をもって主に持って行くのです。その時、主は思いがけない大きな業を行われるのです。私も無一文から今の教会を頂く時、いつも常識的には不可能なことばかりでした。しかし、自分の持っている小さな信仰を主に持って行く時大いなる奇跡を見させていただきました。アンデレさんは素朴な小さな信仰の持ち主でした。彼は神様に計算外の期待を持っていたのです。あなたの持っている小さな期待、献げ物、人生を主にお捧げしましょう。それは何百倍にもなって人をうるおし自分に帰ってきます。残った12かごのパンくずは誰のものだったかという話を聞いたことがあります。それは少年のものだったと言うのです。
次にアンデレが登場するのは不思議な場面です。

“さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。”ヨハネ12:20〜29

ピリポとアンデレはその名前がヘブル語ではなくギリシャ語であることからギリシャ・ローマ的な文化に影響された地域の人だったと考えられます。事実ガリラヤはそういう場所でした。そのためにギリシャ人の友人もいたのかもしれません。それでピリポはアンデレに相談してイエス様に言いに行ったのでしょう。
しかし、ここは実に奇妙な個所です。このギリシャ人たちが単なる観光客で有名なイエス様に会いたいと言っただけなら、このあとのイエス様の反応は異常です。「人の子が栄光を受けるその時が来ました」「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです」この場合栄光とは十字架に掛かって死ぬことを意味しています。そしてそれに対して神御自身がお答えになりました。
当時ローマは世界を支配していましたがギリシャは文化の中心でした。使徒の働き17章でパウロはアテネで演説しているように、あらゆる宗教、哲学、学問などが論じられていました。アテネで認められなければ決して世界的には認められないし、認められればそれは世界に広がって行きました。それでこのギリシャ人たちはイエス様にギリシャに来て話をしたらどうかと言いに来たのだろうとある学者達は言っています。そうだとするとあとの話がつながるのです。イエス様は「自分の使命は世界的に有名になることではなく、この地で十字架に掛かって死に、人類の罪の贖いをすることなのだ」と言われたのです。すでにイエス様の命はねらわれていました。ギリシャに逃れて世の宗教や哲学として論じていれば安全でした。しかし、イエス様は断固としてそれを拒絶されました。だからここはゲッセマネの園の前の主の決断の時だったのです。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」という言葉がそれをはっきりと示しています。
この後、アンデレはマルコ13:3に他の弟子たちと共に世の終りについて質問していますが、それからのアンデレについては「使徒の働き」は全く何も語っていません。伝説ではアカヤ(ギリシャ地方)に行きパトラの総督エゲアスの妻マキシミラとエゲアスの兄弟ストラトクレスの僕の病をいやしたために、彼らはクリスチャンとなり、それを怒ったエゲアスによって十字架に掛けられて殺されたと言われています。その際、アンデレは主と同じ十字架では私のようなものは心苦しいとX字型の十字架に掛けられることを希望しそのためにX型の十字架をアンデレの十字架と呼ぶようになったということです。
アンデレは素朴な凡人だったと思われます。しかし、その魂の清い輝きによっていつも、思いがけずに主イエスのお役に立った人でした。