メッセージ 2000・7・16    小 石 泉 牧師

ヨ ハ ネ

ヨハネとは「ヤハウエは恵み深い」と言う意味です。ヨハネの特徴は特に「主に愛された弟子」と自らいうほどイエス様に愛された人でした。ところで、こんな事を言わなければならないのも情けないのですが、この愛されたと言う言葉と「イエスの胸によりかかっていた」と言う言葉からイエス様とヨハネが同性愛だったと言うとんでもない人々がいるので一言いわなければなりません。特にその代表者はレオナルド・ダビンチで、彼は自分自身が同性愛者だったこともあってこのことを現す絵を描きました。それが『最後の晩餐』です。しかし、ヨハネが福音書の中で「主に愛された」と書いた時、必ずアガペーと言う言葉を使っています。男女の愛を表すエロースと言う言葉は決して使っていません。ましてや同性愛など論外です。アガペーは罪人のために死ぬ至高の愛です。愛国心、母性愛などはフイレオーです。
さて、ヨハネはペテロの兄弟アンデレと共にバプテスマのヨハネの言葉に従ってイエス様の後に従ったもう一人の弟子と考えられています。ヨハネは常に自分のことを匿名で書いています。そしてガリラヤ湖で「わたしについてきなさい」という御言葉に従った一人でありました。実はヨハネとその兄ヤコブの母はイエスの母マリヤと姉妹の間柄だったのではないかと思われます。それは四つの福音書の復活の朝墓に行った女達の名前を付け合わせるとサロメと言う名の女性がヨハネとヤコブの母と考えられるのです。(踊りの褒美にバプテスマのヨハネの首をもらったサロメではない)それはイエスの母マリヤの姉妹と書かれているのです。ですからヨハネは戸籍上はイエスの従兄弟に当たります。
弟子となったヨハネは福音書の著者ですがその中ではほとんど発言していません。しかし、そのひととなりはいくつかの例から判ります。まず彼と兄のヤコブは非常に激しやすい人でした。それでイエス様は面白いあだ名をつけられました。

“ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。”マルコ3:17


また彼らは次のエピソードでも怒りやすい性格だったことが判ります。

“さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。そして一行は別の村に行った。”ルカ9:51〜56


「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」ヨハネはサマリヤの住民を焼き殺すと言うほど無慈悲であり、しかも、「私たちが」するというほど高慢でもありました。さらに彼らは権力意識、エリート意識がありました。これはイエス様の教えとはかけ離れたものだったのですが最初の頃のヨハネ達には理解できないことでした。

“そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左に座ることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」”マタイ20:20〜28

ここはイエス様と弟子たちの心の中の違いがはっきりと表れた個所です。彼らはまだ世界への贖いの福音を告げる者となると言うことが全く判っていませんでした。彼らはイエス様がイスラエルの王として君臨するものだと思っていたのです。そしてその時、王であるイエス様の右大臣、左大臣として欲しいと母親に言わせているのです。この場合、母はイエスの母マリヤの姉妹、すなわち叔母としての地位を利用しようとしていたのでした。このようなヨハネが後に、愛の使徒と呼ばれ、イエス様の御心をあざやかに書き表すヨハネの福音書の著者となるのですからその間のイエス様の教育のすごさが判ります。彼は全く別人のように変えられて行くのでした。ヨハネにそんなことが起こったのはヨハネがいつもイエス様のそばにいて離れず愛されるものとしてその愛を存分に受け取ったからでしょう。
ヨハネはいつもイエス様のそばにいました。イエス様が栄光の姿を現された変貌の山で、12歳の娘の復活の時も、そしてイエス様が捕らえられてカヤパの庭にいた時も。彼は大祭司の知り合いだったので入ることが出来たのかもしれません。そして男の弟子たちの内でただ一人イエス様の十字架の真下にもいました。その時、イエス様は、自分の弟達がいたのにヨハネに母マリヤを託しました。

“兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。”ヨハネ19:25〜27

イエス様はメシヤとしての公生涯に入られてからはマリヤに対して決して母とは呼びませんでした。しかし、自分がいよいよ死に直面した時、母をもっとも信頼するヨハネに託したのは心あたたまるお姿です。イエス様がヨハネを愛されたのはヨハネがイエス様の心をもっとも深く読み取ることが出来た人だからでしょう。ですからこの愛という言葉は「信頼」という言葉が最もふさわしいのでしょう。
実際、その後のヨハネは教会の柱となり(ガラテヤ2:9)常にペテロの傍らにいて重要な働きをしていますが、最も重大な仕事は「ヨハネの福音書」を書いたことでしょう。ヨハネの福音書は他の3つの福音書とは大きく違っています。後世の学者達はマタイ、マルコ、ルカの3福音書を「共観福音書」と呼びました。それは互いに共通する部分が多く、伝記としての性格を持っているからです。しかし、ヨハネの福音書はまるでイエス様自身の言葉のように思われるのです。あのニコデモの話の直後に突然有名な3章16節が出てきます。それはニコデモとの会話をされたイエス様を紹介するのに、堂々たる威厳をもって自信に満ちて書かれています。それは全権を託された大使のようです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
また、彼は3つの手紙を残しています。そこには愛という言葉があふれるばかりに書かれています。晩年彼は人に会うごとに「子らよ、互いに愛し合いなさい」と言ったそうです。あまりにもそればかり言うのである時弟子の一人が「なぜいつも同じ事を言われるのですか」と聞いたそうです。するとヨハネは「主がそう言われたからだ。そしてそれで十分なのだ」と言ったそうです。
やがてヨハネはドミチアヌス帝(在位81〜96年)の迫害の時、エーゲ海のパトモスと言う島に流されそこで黙示録を書きました。ちなみにヨハネの福音書はこの黙示録の後に書かれたということです。
ユーセビオスの教会史によればヨハネはAD100年、94歳の長寿を全うしてエペソに葬られたとあります。また迫害を受け殉教したとも言われますが正確なことは判りません。 いずれにしても激しい乱暴な若者が世界の歴史上最も美しい福音書と愛の手紙を残すほどに変えられたのです。それは「いつも主のそばにいた」ことの結果でしょう。彼はイエス様を最も体験し、似た者とされた人だったのです。