メッセージ 2000・7・2    小 石 泉 牧師

ペ テ ロ−U

“それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。”マタイ14:22〜33

イエス様はあまり御自分の御力をひけらかすことはされませんでしたが、ここでは御自身が全能の神であることを知らせることを良しとされました。イエス様にとって奇跡を行うことより行わないでいることの方がはるかに難しいことでした。ガリラヤ湖の荒れる波の上を平然と歩かれるイエス様を見た弟子たちが幽霊だと恐れたのは当然です。しかし、それがイエス様だと判った時、弟子たちはほっとしました。普通はそれで終りですがペテロさんは違いました。幽霊だと恐れおののいた直後に、神の偉大な御力を見た直後に、「私にも出来るだろうか」と考えるのがペテロさんでした。ペテロさんは立ち直るのも早いのです。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」イエス様は「来なさい」と言われました。そして歩き出して確かに歩いたのです。水の上を。人類でただ一人。しかし、ペテロさんも常識が働きました。「歩ける訳ないだろう」。イエス様を見ていた時、彼は水の上を歩けました。しかし、荒れ狂う海を見て我に返った時彼は沈み始めたのです。彼は漁師です。時には脱いでいた着物をわざわざ着ても泳ぐことが出来ました。しかし、この時はあわてていました。不信仰は持っているものまで失わせます。彼はおぼれかけ、イエス様に引き上げられます。イエス様は水の上で彼を引き上げました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」 しかし、覚えてください。他の弟子たちは水の上を歩くことはありませんでした。ペテロさんの好奇心。積極性。行動力。イエス様はそれを愛されたのです。
さてしかし、このペテロとイエス様の楽しい関係にも暗雲が立ち込めます。

“そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。”マタイ26:31〜35

イエス様の深刻な告白。今夜、イエス様に危機が訪れる。ペテロも他の弟子たちもその時は我々も一緒に死ぬのだと決心していました。だから「私は決してつまづきません」と言いました。しかし、イエス様は人間の弱さをご存知でした。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」。ペテロはむきになって言います「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」。しかし、その舌の根も乾かぬ内にこの言葉は裏切られます。ゲッセマネでの祈り、イエス様の逮捕、連行。ペテロは役人の耳を切り落としてイエス様にそれくらいでやめなさいと言われ、遠くからそっと付けていきます。そして大祭司カヤパの官邸の庭で様子を見ていました。

“ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。” 69〜75

ペテロの後悔。しみじみと伝わってきます。私たちももしかしたら同じかもしれません。その場になってみれば勇気も献身も消し飛んでしまうかもしれません。
その後、イエス様の十字架、復活とめまぐるしく事態は進展します。ペテロさんはただ右往左往しているだけです。そしてしばらく事態が治まった時「田舎に帰ろう」と言い出します。そしてもう一度魚を捕る漁師に戻ります。そこに再びイエス様が訪れます。そこは長い個所なので省略します。

“イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。”ヨハネ21:14〜17

ここでイエス様は私を愛するかと三度もペテロに尋ねます。これは明らかにペテロの三度の裏切りへの三度の許し、三度の自己喪失、失望、自責の念への三度のいやしでしょう。しかもこの愛するかと言う言葉をヨハネは不思議なことにギリシャ語の三つの愛、アガペー、フィレオー、エロースから選んでいます。イエス様の最初の二つの「愛するか」は至高の愛アガペーです。しかし、ペテロの答えはそれよりは劣るフィレオーでした。「主よ私はそんな気高い愛を持ち合わせません」。すると三度目にイエス様は「フィレオー、愛するか」と言われました。ペテロの目線、身の丈、限界までひざを屈して下さったのです。(エロースは男女の愛)
こうしてペテロは再び教会の柱となるべく献身の道、使徒の道に戻ることが出来ました。私たちももしかしたらペテロさんのように主を否み、裏切りをすることがあるかもしれません。しかし、イエス様はいつも私たちの身の丈までひざを屈してきてくださいます。「あなたも私を愛しますか?」
こうして再びエルサレムに戻った弟子たちは主の約束の聖霊のバプテスマを待って主の十字架から数えて50日目まで祈ります。(使徒1:4)すると集っていた120名ほどの人々に聖霊が下り、彼らは異言で祈り始めました。その物音に大勢のユダヤ人が集ってきました。この時、ペテロさんが立ち上がり堂々と説教を始めたのです。それはカヤパの庭のペテロではなく、恐れを知らない勇者のようでした。

“そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。”使徒2:14

“ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。”2:36〜41


聖霊に満たされたペテロはこうして“しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。”1:8という御言葉通りに、キリストの証人として偉大な働きを始めました。病を癒し。あしなえを立たせ。教会の柱として、指導者として力強い働きを始めたのです。しかし、実はこの後も時々ペテロさんは弱く頼りない人間性を表します。このペテロの弱点を補い、イエス様の福音を理論的に確立したのはパウロでした。
それにしても、もし、ペテロさんがパウロのように堅固で欠点のない人物だったら、私たちは果たして安らかに気持ちで信仰に止まれたでしょうか。教会の中心、第一の使徒が実は私たちと同じような弱く頼りない人だったからこそ私たちは安心してこの道に入ることも止まることも出来るのではないでしょうか。(つづく)