メッセージ 2000・6・25 小 石 泉 牧師
ペ テ ロ−T
今日からしばらく、特別な導きがない限り聖書の登場人物を学びたいと思います。それと言うのも最近ダビデから、人間が神を語る時そこに神御自身のお姿が明らかにされていくのだと言うことを発見(?今さら)したからです。実にダビデによって私たちは神の御愛、忍耐、親しみなどを学んでいきます。そしてそれらの人々がいなければ神のお姿は私たちに明らかにされない部分があるのです。今週は新約聖書の最初の人物としてペテロさんについて学びましょう。
“ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。”マルコ1:14〜16
私はかねてからこの場所が不思議でなりませんでした。一体、どうしてこんなにも簡単にシモンとアンデレはイエス様についていったのでしょうか。ここは良く、献身の決断、徹底について語られるところなのです。それにしても見ず知らずの人にこうも簡単に全てを捨てて従えるものでしょうか。何かユダヤ人にはそういう特別な習慣や伝統があったのでしょうか。しかし、実はこれは実に愚問でした。彼らはすでにイエス様と特別な関わり合いを持っていたのです。
“その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」”ヨハネ1:35〜42
前のところではバプテスマのヨハネが捕らえられた後と書かれています。そしてここはまだバプテスマのヨハネが健在です。ヨハネはイエス様を見つけて「見よ、神の子羊」と弟子たちに紹介します。これは恐らく当時のユダヤ人にとって彼こそはメシヤだという言葉だったに違いありません。この弟子たちは直ちに師のヨハネを捨ててイエス様についていきます。この辺は実にヨハネという人の特別な立場を考えさせられるところです。
さて、その二人の弟子たちの一人がシモン、後のペテロの弟のアンデレでした。
アンデレは直ちにイエス様がメシヤであることを確信し、兄のシモンに伝えます。
「私たちはメシヤに会った」。このアンデレという人は決して目立たない人ですがしばしば重要な働きをします。例えば五つのパンと二匹の魚のところを思い出してください。他の弟子たちが男だけで5000人もの人々に食事を与えることは不可能だと言う時アンデレだけがイエス様にパンと魚を持ってきました。
さて、シモンは直ちにイエス様のところに行きました。するとイエス様は彼にケパ(ペテロ)という名を付けます。これは彼を弟子にしたとも取れるのです。そしてその後にバプテスマのヨハネは捕らえられ彼の弟子たちはそれぞれ離散し、ペテロもアンデレも家に帰っていた時にイエス様がガリラヤ湖に現れて彼らを特別な仕事のために呼び寄せたのです。この召命にペテロ達は直ちに答えたのです。
シモンという名はヘブル語のシメオンのことで「聞く」という意味です。一方、ケパすなわちペテロ(ペトロス)は「石」という意味です。
“さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。
その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」”マタイ16:13〜23
ピリポ・カイザリヤはガリラヤ湖の北、ヘルモン山の麓にある保養地でヘロデの息子ピリポがローマ皇帝カイザルに捧げたところで当時はそこにカイザルを祭る神殿がありその前を歩く時、人々は「生ける神の子キリスト」と言って礼拝しなければなりませんでした。ローマ皇帝は神として礼拝されていたのです。この地でイエス様は弟子たちに自分は何者かと聞きました。ペテロは「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白しました。これは上の理由から公に告白すれば反逆罪に問われる言葉でした。イエス様はこの告白を大変喜び「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」と言います。そしてこの信仰の上に教会を建てると約束されます。ピリポ・カイザリヤには大きな岩山があります。当時その上にカイザルの廟がありました。イエス様は言葉の遊びをします。あなたはペテロ(ペテロス、石)だが、私はその信仰告白である岩(ペトラ、大きな岩山)の上に教会を建てると。もちろんこの岩とはイエス様御自身をも表しています。(ダニエル書2章参照)そして「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています」と言われました。ペテロの後継者を自任するローマ・カトリックはこの言葉から自分たちだけが天国の鍵を持っていると言いますが以上の点からそれは間違いです。ただしペテロが本当に弟子たちの中心になり偉大な使徒となったことは確かなことです。
ところがその直後にイエス様が御自分の死を予告された時、ペテロはそれをいさめました。これは全く自然な人間としての情から出たことでした。彼は人生の先輩として当然のことをしたのです。しかし、イエス様の反応は驚くべきものでした。
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」前では神に用いられたペテロとしてほめたのにここではサタン!です。ペテロの失敗と言われますが私はむしろイエス様はペテロの失敗を通して御自身の途方もない計画を示されたのだと思います。ここでも実はペテロは神の器だったのです。
“それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。”マタイ17:1〜8
ピリポ・カイザリヤで高い山と言えばヘルモン山に違いありません。イエス様はそこにペテロ・ヤコブ・ヨハネの三人を連れて登り、御自身の天での栄光のお姿を見せられました。そこに天が降りてきました。モーセとエリヤ、旧約聖書を代表する二人が現れたのです。あまりの神々しさにペテロはすっかり取り乱し、言わなくても言いせりふを言います。三つのテントを張ったところで何になるでしょうか。この辺がペテロのペテロらしいところです。そして神御自身の声がイエス様を保証しました。これは父なる神が子なる神に直接語られた珍しい個所です。(洗礼の時も)この後にモーセとエリヤ、律法と預言の旧約聖書の人物は去り新しい契約、福音の主、イエス様だけが残りました。ペテロはその証人の一人となりました。
祭司でもなく律法学者でもなく、一介の漁師で「無学な普通の人」(使徒4:13)に過ぎなかったペテロ、直情でおっちょこちょいの人物。しかし、この無きに等しいものを神様は世界の歴史に残る最も偉大な人の一人としてお用いになったのです。