メッセージ 2000・6・11 小 石 泉 牧師
救 いと清 め
聖書の中にはクリスチャンに対して極めて清く、気高い要求があります。例えば次の聖句はその一つの例です。
“あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。”Tコリント6:19〜20
“そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。”ローマ12:1
さらに
“あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。”1ペテ1:15〜16
ともあります。「神から受けた聖霊の宮」「代価を払って買い取られた」「自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」「聖でなければならない」……なんと言う清く気高い御言葉でしょうか。若い頃はそれほど深刻には受け止めていませんでした。いつかそうなれるだろうと。しかし、年が進んでも一向にそれは近づかないばかりかますますその差は広がって行くのです。
一方で救われた時は何の要求も条件もありませんでした。
“なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。”ローマ3:20〜28
「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない。」「キリストを信じる信仰による神の義」「キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰による」とあるではありませんか。約束が違う?
非常に多くのクリスチャンがこの矛盾に苦しんでいます。一方では全く何の条件もつけないで救いが約束されているのに、一方では果てしなく不可能に近い清さが要求される。事実、この清めを強調するあまりに絶望してしまった人もいるのです。
人は行いによるのではなく、キリストの一方的なあわれみと恵みによって救われます。ローマ書は全体を通してのそのメッセージを伝えています。
“「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。”ローマ4:7〜13
“主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。”4:25
確かに救いは私たちの努力や功績なしで与えられました。しかし、それだけに止まっているなら自由は放縦となります。神様はさらに高い目標を示されるのです。
若い頃、谷川岳に登ったことがあります。土合の駅を出て、ひとりで頂上を目指しました。登っても登っても頂上には着きません。あのピークが頂上だろうかと思って行くとまた下りがあります。またピークを目指してもまた下り。へとへとになり、とうとうザックの中を整理して必要なもの以外は別にして岩陰に隠し、登りました。正午過ぎに肩の小屋についた時は疲労困ぱい倒れるように寝てしまいました。誰かが死んでいるかと思ったと言っていました。
クリスチャン信仰も同じです。やっとピークに届いたかと思うと下り坂。時には滑り落ちたり、つまづいたり。行けども行けども高い峰ははるかに遠いのです。パウロ先生はこんな事を言っています。
“私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。”7:15〜25
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです」「私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです」「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています」
驚くではありませんかあのパウロ先生ですらこのような告白をされているのです。そしてこれは私たち全ての告白ではないでしょうか。
そして彼は悲痛な叫びをあげます。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」誰が救い出してくれるのでしょう。それはもちろん主イエスその人です。このローマ書七章は前後関係がつながらないところです。実は六章の終りと八章の初めはしっかりとつながるのです。パウロ先生は七章をその間に挿入したと考えられます。(聖書の章節は後から付けたものでは初めはありませんでした)
八章はこう始まります。“こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。”8:1 私たちは清い要求に応えることが出来なくても救いは与えられているのです。救いと清め、この矛盾を解決するのも主イエスの十字架です。そしてそれは永遠に変わりません。
“では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。”8:31〜39
神の義、清さと正しさは私たちに気高い要求をします。しかし、その要求に応えられなくとも神の愛は私たちを救い、導きます。私たちはせめてその事を嘆きましょう。パウロ先生のように。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。その時、わたしたちの歩みは少なくとも謙虚なものになるでしょう。無関心であったり、救いにあぐらをかいてはならないのです。また、あまりにも人間的な誠実さで絶望してもならないのです。私たちの矛盾を主の十字架は答えてくださっているのでから。