メッセージ 2000・5・21 小 石 泉 牧師
天 国 の 法 律
少年たちの犯罪の増加に対して、少年法の改正をすべきだという声が高まっています。これは当然で、聖書では誰であれ人を殺したら死刑です。ただ、法律を厳しくすれば犯罪は無くなるのでしょうか。無くなりはしないでしょう。しかし、今のように寛大すぎる法律はやはり改正しなければなりません。さて、しかし、天国の法律は随分違ったものです。
“この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。”
マタイによる福音書5:116
何とこの世の法律とは違っていることでしょう。イエス様はまず「心の貧しい人は幸いです」と言われます。貧しいとは困った訳ですが、要するに心のへりくだった人という意味です。天国は心の思い上がった人のものではなく、へりくだった謙虚な人のものです。当り前といえば当たり前ですが、これは本当にむずかしいことなのです。私は六十年近く生きてきて本当に心のへりくだった人に会ったことは数えるほどです。人間の性質の第一のものは高慢です。これはサタンの性質でサタンは高慢の故に天使長の位を追われたのです。それに比べて神の子の性質は謙遜そのものです。
次に「悲しんでいる人は幸いです」と言われます。悲しんでいる人がどうして幸いなのでしょう。人は悲しんでいる時、真実です。悲しみは謙遜をもたらします。特に自分自身を悲しむ人は清められて行きます。傲慢な人は悲しみません。悲しむ人は神から慰められます。今の悲しみは後に喜びに変えられます。
また「柔和な人は幸いです」と言われます。その人は地を相続すると言われます。柔和な人はこの地上にあっても全ての人に受け入れられ、神御自身がこの地を与えてくださるのです。柔和な人は争って得るよりも多くの物を受けるでしょう。
「義に飢え渇いている者は幸いです」とありますが義に飢え渇く人とはどういう人でしょうか。見てみたいものです。確かにまれにですが人間の中には正しい心の人がいるものです。その反対に邪悪な人というのもいます。正しい心の人は満ち足りるとあります。それでこそ神の国の法律と言えるでしょう。
「あわれみ深い者」はあわれみを受け、「心のきよい者」は神を見、「平和をつくる者」葉神の子と呼ばれ、「義のために迫害されている者」は天の御国はその人のものだからですと約束されています。これら全てはこの世ではあまり評価されない類のものです。しかし、これが神の国では市民権を持つのです。これはイエス様が語られた神の国の法律です。
一方この世の法律は「こうしてはいけない、もしすればこういう罰を受ける」というものです。その元になったのはもちろんローマ法とか色々あるでしょうが、文字に記された法律としてはハムラビ法典に次いで古く、継続して用いられたものとしてはモーセの十戒でしょう。
“それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。・・
それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。”出エジプト20:1〜17
神はアラビヤの砂漠の中の荒々しいシナイ山の上で、稲妻と火の中でこの法律をイスラエル人に与えました。しかし、イエス様が与えられた法律「山上の垂訓」は美しいガリラヤ湖のほとりの緑豊かで花咲き鳥歌う丘の上で語られたのです。それは「あなたは…してはならない」ではなく「あなたは幸いです」と言うものでした。モーセの十戒はイスラエル人のためでした。彼らを選民として選び、特別な民族として育てるために与えられました。しかし、イエス様が言うあなたがたとは誰のことでしょうか。それは心が貧しく、悲しみ、柔和で、義に飢え渇き、あわれみ深く、心が清く、平和を作り出し、義のために迫害されている人のことです。それらの人々には刑罰ではなく報酬が約束されています。
彼らは慰められ、地を相続し、満ち足り、あわれみを受け、神を見、神の子どもと呼ばれ、天の御国が約束されています。
これは明らかにある一つの民族のことではありません。それは全ての人間に約束されているのです。しかも、今までの歴史上の人間の法律とは全く違って新しい法律です。その法律はこの世のものではなく守る者には天の御国が約束されているのです。だからこれは天国の法律なのです。そしてイエス様は、さらにこの法律を一言で表されました。
“それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。”マタイ7:12
人を殺してみたかった。こういう少年は自分が同じ目になったらどうかと言う考えはまったくありません。前にも暴走族の少年がテレビで、金が欲しければ人から取ればいい、腹が立てば殴ればいい、何をやってもいいんだというのを聞いて、では自分がされたらどうなのかという観点が全く無いのに驚かされました。自分にしてもらいたいように他人にしなさい。自分にして欲しくないことを他人にはしないようにしなさい。実に簡単明瞭、判りきったことですが、この当たり前のことが出来ないし、出来る人を愛の人と呼びます。
山上の垂訓を今の日本の青少年に与えたいものです。