メッセージ 2000・5・7    小 石 泉 牧師

虚 空 の 国

“また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。”ローマ1:28〜32

恐るべき荒廃がこの国を覆っています。特に青少年の心は耐え難いほど空虚です。人間は空虚さには耐えられないものです。神のない我が国の心の荒廃は癒しがたい傷を青少年の心に負わせています。最近、私はこの国に住むのが恐ろしい。
欧米では神を信じない場合、サタンを信じるようになります。これも恐ろしいが何かの拍子に悔い改めが起こります。しかし、日本には創造者なる神がいない。
私は聖書にこのような国を探してみましたが当てはまるようなものはありませんでした。かろうじて士師記にそれに近いものを見出すのみです。

“そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。” 17:6 “そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。” 21:26

聖書は2度も同じ言葉を書いています。得手勝手、自己中心、この点は今の日本の一部の若者とそっくりです。しかし、宮崎勤、神戸の小学生の生首事件。京都の小学生殺人事件。17歳の少年の「人殺しをしてみたかった」事件。先週のバスハイジャック事件。暴走族。etc.。これは歴史上例を見ない恐ろしさです。

“主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・ヘレスに葬った。その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。彼らがどこへ出て行っても、主の手が彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。そのとき、主はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行ない、それを拝み、彼らの先祖たちが主の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行なわなかった。主が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。” 2:8〜19

士師とはモーセ、ヨシュアの次の世代に神から選ばれた指導者のことで、後に王となる前の政治形態でした。彼らはAD1360年から約300年間言わばボランティアーとしてイスラエルを敵から守りました。中でもオテニエル、エホデ、サムソン、デボラ、ギデオンなどが有名です。今日はギデオンが神に召されたところから、私たちがこの日本の霊的荒廃を救う手だてを考えましょう。

“イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。そこで、主は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した。こうして、ミデヤン人の勢力はイスラエルを押えたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにした。イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。そしてイスラエル人に対して陣を敷き、その地の産物を荒らして、ガサに至るまで、イスラエルに羊や牛やろばのためのえささえも残さなかった。” 6:1〜4

イスラエルが神を忘れ偶像礼拝に走った時、神はミデアンを送って苦しめました。士師記の内容は背信、圧迫、悔改、救済です。

“さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の使いが彼に現われて言った。『勇士よ。主があなたといっしょにおられる。』ギデオンはその御使いに言った。『ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、「主は私たちをエジプトから上らせたではないか。」と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。』すると、主は彼に向かって仰せられた。『あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。』ギデオンは言った。『ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。』主はギデオンに仰せられた。『わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。』” 6:11〜16

ギデオンは酒舟に隠れて麦を打っていました。情けなくみじめな思いだったことでしょう。しかし、その彼に御使い(まだ人となられる前の御子)は「大勇士よ」と呼びかけました。そして彼にイスラエル救済の使命を与えます。神の助けを期待し、自分では何も出来ないと決めているギデオンに、御使いは「あなたの力で行け」と言われました。私たちは神の圧倒的な力がまず表されることを期待しますが、神はまずあなたのその力で事に当たりなさいと言われます。この弱い、みじめな自分の力でです。それでもひるむギデオンに「わたしがあなたといっしょにいる」と言われます。
やがてミデアン、アマレクなどの連合軍がイスラエルに向かってきます。ギデオンは早速イスラエルに呼びかけて3万2千人ほどが集まりました。

“そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。すると、主はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない。』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない。』と言う者はだれも、行ってはならない。」そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。” 7:2〜6

神様は言われました。「あなたといっしょにいる民は多すぎる」。神様は御自分で勝利を与えることを決めていました。ここに集まったのは決して勇敢で戦いに慣れた戦士たちではなかったのでしょう。びくびくとおびえながら集まった素人の集団だったに違いありません。そのまま戦ったら勝ち目はなかったでしょう。彼らはモーセ、ヨシュアの戦闘や勝利から長い間遠ざかっていました。また偶像礼拝に浸っていました。この水の飲み方を見定めたのは偶像礼拝の背景があるのだと言うことです。偶像を信じない本当のイスラエル人。信仰と勇気を持った
300人の精鋭部隊が誕生したのです。神様が人の祈りに答えられる条件は次の御言葉によって知ることが出来ます。少し長いのですが読んでください。

“またイスラエル人は、主の目の前に重ねて悪を行ない、バアルや、アシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。こうして彼らは主を捨て、主に仕えなかった。主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、彼らをペリシテ人の手とアモン人の手に売り渡された。それで彼らはその年、イスラエル人を打ち砕き、苦しめた。彼らはヨルダン川の向こう側のギルアデにあるエモリ人の地にいたイスラエル人をみな、十八年の間、苦しめた。アモン人がヨルダン川を渡って、ユダ、ベニヤミン、およびエフライムの家と戦ったとき、イスラエルは非常な苦境に立った。そのとき、イスラエル人は主に叫んで言った。「私たちは、あなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルに仕えたのです。」すると、主はイスラエル人に仰せられた。「わたしは、かつてエジプト人、エモリ人、アモン人、ペリシテ人から、あなたがたを救ったではないか。シドン人、アマレク人、マオン人が、あなたがたをしいたげたが、あなたがたがわたしに叫んだとき、わたしはあなたがたを彼らの手から救った。しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい。」すると、イスラエル人は主に言った。「私たちは罪を犯しました。あなたがよいと思われることを何でも私たちにしてください。ただ、どうか、きょう、私たちを救い出してください。」彼らが自分たちのうちから外国の神々を取り去って、主に仕えたので、主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。” 10:6〜16


イスラエルが偶像を追い求める時、神は「あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい。」と言われます。しかし、イスラエルが偶像を捨てて悔い改めると「主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった」。私はこの御言葉が好きです。
我が国は偶像の満ち満ちた国です。困難な時に「あなたがたの偶像に救ってもらうが良い」と神様が言っても仕方がないのです。しかし、もし私たちが神と日本の間に立って祈るなら、神は見るに忍びなくなるかもしれません。いやそれほどまでにとりなしの祈りをしなければなりません。たいまつと角笛を持った300人の精鋭部隊とはそのような祈りの勇士を指しているのでしょう。祈りましょう大勇士たちよ。