メッセージ 2000・4・23 小 石 泉 牧師
復活の真実
主イエスの復活を感謝します。いつも福音書の復活の記事からお話してきましたが、今日はコリント人への第一の手紙15章全体から主の復活の意味を尋ねてみましょう。
「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」コリントT15:1〜8
パウロ先生によればキリストの福音すなわちキリスト教とは、キリストが“私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと”です。キリスト教とは復活の宗教です。永遠に不滅の体を持つことです。今の人々はこう言うことを言うとせせら笑うのですが、もし人がこの命だけで終わるとするならそれこそ人生は無意味でせせら笑うべきことです。ここでパウロは今でも500人以上の証人がいると言っています。そして誰よりも確実な証人はパウロ自身です。彼はキリストの敵対者だったからです。
「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」15:12〜19
復活を否定したらキリスト教ではありません。(しかし、世の中には復活を信じていないクリスチャンというものもいるのです。)もし、キリストが復活されなかったら私たちは神に逆らう証言をしていることになります。そして私たちの信仰は空しく、今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者(死んだ者)たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者ですとパウロ先生は言っています。本当です、もし復活がなかったら私たちは一番こっけいで、哀れで、情けない存在です。もし復活が無いなら、私たちは大変なうそつきです。特に使徒たちは、自分でキリストの死体を片づけてうそをついた張本人ですから、大嘘つきだということになります。キリスト教はうその上に成り立ち、うそのために拷問と殉教に甘んじ、真理、愛、自己犠牲、感謝、喜びを謳っていることになります。
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。」15:20/ 26
世界の歴史上初めて人が復活しました。それを初穂と呼びました。イエス様は神様だから復活するのは当たり前だ、と思っていませんか。キリストは完全な神であり、完全な人でした。そうでなければ人類の代表者にはなれません。初穂とは代表であり実りの約束です。そして最後に悪魔や悪霊を滅ぼして世界を神にお返しになります。私がおかしいと思うのは今はその直前の時なのに、むしろ昔の方がそういうことを信じている人が多かったように見えることです。これは今すぐにでも起こることなのです。
「ところが、ある人はこう言うでしょう。『死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。』愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。」15:35〜46
復活の体は幽霊のようなものではありません。それは今とは違う体です。パウロ先生は何とかしてそれを教えようとしています。パウロ先生はそれを見て知っているのです。この新改訳聖書の訳で残念なのは「御霊」と訳されている言葉です。これでは何が何だか判りません。これは口語訳聖書の方が判りやすかったのです。原語のギリシャ語では人間の霊も聖霊もプニューマという同じ言葉が書かれています。それで翻訳者は迷うのです。
ここは霊の体と訳すべき所です。そうでなければ私たちが御霊になってしまいます。
「第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』」15:47〜55
私たちの罪を犯し、病を受け、苦しみ、悩み、嘆き、悲しむ罪の体は「またたくまに一瞬にして」(口語訳)変えられます。朽ちるものは、朽ちないものに、死ぬものは、死なないものに変えられます。『死は勝利にのまれた。』『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』高々と吹き鳴らされるファンファーレのように死への勝利が宣言されています。これがキリスト教と言うものです。これは間もなく本当に実現するのです。
最後にコリント第二の手紙を読みましょう。
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」4:18〜5:7
「見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続く。」復活の希望はしばらくの間信仰によって維持されます。「見えないものを見ているようにして忍び通した。」ヘブル書にもそう書かれています。地上の仮家ではなく天の豪邸を期待しなさいと聖書は告げます。クリスチャンとは地上のことではなく天のこと、見えるものではなく見えないものを第一にする人々のことです。あなたはこれらの言葉を信じて、神の側につきますか、それとも地上の側につきますか。それを毎日はっきりしてください。