メッセージ 2000・4・16    小 石 泉 牧師

悪霊との闘い

「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」エペソ6:10〜18(口語訳)

クリスチャンの人生は決して順風満帆ではありません。試練や闘いは常に襲ってきます。
一難去ってまた一難。ああ、これで少しは平安かなと思っているとすぐまた次の問題が起こります。それらの試練や闘いは多くの場合、身近な人々によってもたらされます。私たちはそれらの人々や問題を見つめて、時にはいらだったり、思い煩うのです。しかし、パウロ先生はクリスチャンの闘いの相手は、血肉、人間ではないと言っています。それは天上にいる悪の霊との闘いなのだと。口語訳聖書はなめらかな言葉なので書きましたが、この「戦い」という言葉を、新改訳では「格闘」と言っています。そうです、正にそれは格闘です。決して遠くから鉄砲や大砲を撃つような楽な戦いではないのです。悪霊は細菌のようにどこにでも居ます。いつでも私たちのすきをうかがっています。ちょっとした油断、高慢、過度の好奇心、挫折、嫉妬、自己中心、虚栄、神への不従順、無用なおしゃべりなどあらゆる機会を利用して入ってきます。悪霊は男には男の、女には女の、子供には子供の弱点を知っています。私たちはそれを人間の部分だけで見てしまいます。悪霊はそうやって隠れている時に一番有効な働きが出来るのです。私たちの敵は人間やトラブルではありません。それをもたらす悪霊なのです。その事が良く判るのは次の聖書の個所です。

「ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。『ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。』その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。」Tサムエル18:6〜11

サウルはダビデに嫉妬しました。また彼は王になった後、高慢になり、神に不従順でした。彼には「神からの悪霊」がつきました。この場合の神というのが聖書の神様なのかどうかわかりません。研究課題です。ダビデから見ればサウルは恐ろしい敵でした。しかし、ダビデはそれが悪霊によるものだと知っていました。このように私たちを悩まし、苦しめる問題や敵はほとんどの場合悪霊によるものなのです。

「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた。そこでサウルの家来たちは彼に言った。『ご覧ください。神からの悪い霊があなたをおびえさせているのです。わが君。どうか御前にはべるこの家来どもに命じて、じょうずに立琴をひく者を捜させてください。神からの悪い霊があなたに臨むとき、その者が琴をひけば、あなたは良くなられるでしょう。』」16:13〜16
「神からの悪い霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、悪い霊は彼から離れた。」16:23


奇妙なことにダビデはサウルの悪霊を追い出す役目を負っていました。彼の歌、恐らくはそれはダビデの詩編に見るように神への讃美歌だったのでしょう。その時、サウルの悪霊は追い出されました。これは明らかに狂気です。このように狂気も悪霊の働きです。
また悪霊は宗教をもっとも好みます。オウム真理教、エホバの証人、法の華、幸福の科学、創価学会、既成仏教、神道、統一教会、ライフスペース、あらゆる宗教の背景には間違いなく悪霊の働きがあります。麻原や高橋などという人々の言動はその事を明白に証明します。同じように私たちはその宗教の信者ではなく、その後ろにいる悪霊と戦うべきなのです。その戦いは神の武具によってなされます。すなわち真理の帯、正義の胸当、平和の福音、信仰の盾、救のかぶと、御霊の剣、すなわち、神の言、絶えざる祈りと願いです。

「どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」

とあります。どんな時にも、目をさまして、すべての聖徒のためにです。悪霊は目覚めた人や光を恐れます。

「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」ヨハネ3:19〜20

石を取り除けるといろいろな虫があわてて出てくるのを見たことがあるでしょう。このように悪霊は暗闇を棲み家とします。私たちが自分の中に閉じこもり、自己中心と言う暗がりの中を好む時、悪霊は確かに足がかりを得るのです。悪霊に悩まされるだけでなく、私たち自身が“悪霊の器”として用いられてはならないのです。

「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」ローマ14:7〜8

もし、私たちが自分のために生きるのではなくキリストのために生きるなら悪霊は近づき様もありません。もちろん悪霊につかれた人や問題を扱わねばならないのですが。

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」ピリピ2:3〜4 「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」2:21

これ以上説明の仕様がないほど明白に語られています。私たちはもっとキリストのことを求めて生きるべきです。そうすれば私たち自身が悪霊の器となることはないでしょう。
船橋にいた頃、教会の近くにエホバの証人の集会所が出来ました。私たちの小さな教会の前をぞろぞろと多くのエホバの証人が通ります。私たちが30人ぐらいの時、300人以上の人々が集まっていました。私は悔しいのと悪霊に敗北したくないので、毎日、犬の散歩のとき、その会場のビルの前で声を出さずに祈りました。「エホバの証人の霊よ、イエス・キリストの名によって命ずる、ここから立ち去れ、ここから出て行け。」 間もなく、この会場の所有者が欲を出してビル全体を借りるように要求したそうです。彼らはここを立ち去り、出て行きました。はるか彼方の町に移動したのです。このように悪霊は本当にいます。イエスの名がその悪霊を追い出します。