メッセージ 2000・4・9 小 石 泉 牧師
永遠の仔
一ヶ月近く体調を崩して、先週は週間の地区集会もなくひどく無気力になっていました。そんな時、NHKの番組で「永遠の仔」という本のことを知りました。本屋さんで変わった名前の本だなあと思ったことはあったのですが、その著者とアナウンサーのやり取りを聞いている内にこれは読まなければと思いました。この本を読んだ多くの人々から著者に「私も同じ体験をしました。そして同じ苦しみを持った人が居ると知って癒されました。」という手紙が届いているそうです。内容は一言で言えば親の虐待で精神的な打撃を受けた子供の話です。本来、こういう問題は精神科医か教会が取り扱うべきでしょう。しかし、日本の場合、ただ一人で誰にも相談できずに心に深い傷を負ったまま生きて行く場合が多いのです。私が驚いたのはこの本の中で「神様に会いたい」とか「救い」とか「ありのままの自分を受け入れてくれる人」と言ったまるでキリスト教のメッセージそのもののようなメッセージが随所に出てくることでした。日本人は今、本当にまことの神を求めているのでしょうか。解答の無い深刻な問いかけが心に響きます。
物語は四国の小児だけを扱うある病院から始まります。その中に“動物園”と呼ばれる特殊な病棟がありそれは何らかの精神的な傷を負った子供たちの病棟です。彼らは互いに動物の名前で呼び合っています。3人の主人公の内、ジラフと呼ばれる子供は親が火のついたたばこを全身に押しつけたやけどの跡がジラフ(キリン)のように見えるからであり、モウル(もぐら)と呼ばれる少年は母親が次々と男の元に走り、その度に一人ぼっちで押し入れに入って過ごしていたために狭く暗いところをひどく恐れるようになったために、そう呼ばれるようになったのです。中心的な主人公の女の子優希は父親の性的暴力を受けていました。彼らは四国霊場の一つ石鎚山に降りてくる神様に会えば救われると言う希望だけを頼りに耐えます。そして途中で優希の父親を殺そうと計画します。その後、17年目に再会してからそれら全てが音を立てて崩れ去ると言う大変な筋立てです。
私はその中に書かれている子供たちの悲惨な精神状態。心の傷。そして「救ってくれよ」と言う叫びに胸を突かれました。石鎚山なんかには無いよ。ここにあるんだよ。そう叫び出したい思いを押さえがたく感じました。
「わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はなかった。だから、あなたがたはわたしの証人。・・主の御告げ。・・わたしは神だ。これから後もわたしは神だ。」イザヤ書43:10〜13
考え様によっては神様が「私は神だ、他に神は居ない」というのも変な話なのですがそう言わなければ判らない人間が多すぎるのです。神は石鎚山にも金毘羅さんにも伊勢神宮にも居ません。聖書の中に居ます。
「わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。天よ。上から、したたらせよ。雲よ。正義を降らせよ。地よ。開いて救いを実らせよ。正義も共に芽生えさせよ。わたしは主、わたしがこれを創造した。ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、『何を作るのか。とか、あなたの作った物には、手がついていない。』などと言うであろうか。ああ。自分の父に『なぜ、子どもを生むのか。』と言い、母に『なぜ、産みの苦しみをするのか。』と言う者。イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう仰せられる。『これから起こる事を、わたしに尋ねようとするのか。わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか。このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き延べ、その万象に命じた。』」45:4〜12
私がこれら全ての者を創造した神だ。造られたものが造ったものに文句を言えるのか。こんな主張をする神は他に居るでしょうか。私は日本の八百万の神々の中に居るとは思えません。このような言葉を厳粛に受け止めるべきです。また、この中で「わがしもべヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。」45:4〜5(口語訳)とあることに注意してください。あなたがわたしを知らなくても。あなたが神を知らなくても、神はあなたを知っています。神とはそういうお方です。
「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない。』」45:18
「わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。このことを思い出し、しっかりせよ。そむく者らよ。心に思い返せ。遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。」46:5〜9
奈良の大仏、法隆寺の弥勒菩薩、ありとあらゆる仏像、偶像の全てに手を合わせる人々よ、この言葉を聞きなさい。優希よジラフよモウルよここに君たちの探している神、救い主が居ます! 神様は君たちを呼んでいます。
「わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、『わたしはここにいる、わたしはここにいる』と。」65:1
優希のように親や大人から虐待を受けた子供たちは誰にも言えずそれを自分が悪かったからだと思うことにするのだそうです。そして極度の閉鎖的な性格になって行きます。彼らは「君は生きていても良いんだよ、そのままで良いんだよ」と言われたいのです。聖書はこう言っています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」43:4
東大に入ったから、有名になったから、何かに成功したからではなく、神はそのままの私たちを「高価で尊い」と言われます。
この物語は恐らく事実に基づいているのでしょう。そして今もこのような精神の牢獄、この世の地獄の燃える火の中に居る子供たちや大人たちが居るのでしょう。そして親であり子であると言うことが本来はすばらしい祝福であるはずなのに、呪われた関係になっている場合があるのはなぜでしょうか。
神はアダムとエバに「産めよ増えよ地に満ちよ」と祝福されました。しかし、彼らが、神が禁止された木の実を食べた時、呪われたものとなってしまったのです。アダムの子、カインは弟のアベルを殺してしまいました。実に親子関係と言うものには祝福と呪いがあります。私たちもどこかに傷を負っているし、傷を負わせているのです。これが原罪の結果です。
優希とジラフとモウルは石鎚山の上でブロッケンの蜃気楼は見ますが神は見ませんでした。しかし、神は確かに一度この世界に来られました。イスラエルのベツレヘム、ナザレ、ガリラヤ、エルサレムに訪れました。イザヤは700年も前にそのことを預言しました。
「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」53:1〜12(口語訳)
そしてヨハネはこう証言しています。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ヨハネ1:114
今もいる沢山の、優希にもジラフにもモウルにもこのメッセージは伝えられません。私たちは彼らの飢え渇きに与える水と食料を持っているのにその補給路が断たれています。悔しい思いがします。しかし、私はこの本を読んで日本にこのような求道の言葉が現れてきたことに驚きを覚えました。救ってくれ、受け入れてくれ、癒してくれ。みんなキリスト教の言葉だったではありませんか。もしかしたら時が迫っているのかもしれません。私はよほどの悲劇がない限り日本にリバイバルなんか来ないと言っていました。しかし、バブルの崩壊、そして家庭、人間関係、社会の行き詰まりの中で人々は私たちが考えている以上に救いを求め、さまよっているのかもしれません。私たちが語らなければなりません。
「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。ルカ19:40