メッセージ 2000・4・2 小 石 泉 牧師
小羊のいのちの書
「主はこう考えられた。『わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。』そこで主は仰せられた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。』その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。アブラハムは近づいて申し上げた。『あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。』主は答えられた。『もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。』アブラハムは答えて言った。『私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。』主は仰せられた。『滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。』そこで、再び尋ねて申し上げた。『もしやそこに四十人見つかるかもしれません。』すると仰せられた。『滅ぼすまい。その四十人のために。』また彼は言った。『主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。』主は仰せられた。『滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。』彼は言った。『私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。』すると仰せられた。『滅ぼすまい。その二十人のために。』彼はまた言った。『主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。』すると主は仰せられた。『滅ぼすまい。その十人のために。』主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。」創世記18:17〜33
「そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。」19:24〜25
有珠山が噴火してその映像を見ているとこのソドムとゴモラの物語を思い出しますね。もちろん洞爺湖の町々がソドムやゴモラのように罪深いと言うわけではありせん。ただ昔のアブラハムの見た光景がこんな風だったのかなあと思うのです。死海はアフリカ大陸の東にある大地溝帯の延長上にある大地の切れ目にあります。一年に数センチづつ開いているので時々このような噴火が起こるのです。有珠山も大きな火山帯にあります。
さて、人の形を取られた神のひとり子は2人の天使と共にアブラハムに現れました。アブラハムは直ちにこの人々を見分けました。私たちはこのようにイエス様や天使を見分けられるでしょうか。今、多くの教会が聖霊の働きと悪霊の働きを見分けられないでいます。
神のひとり子は全く神と等しくあられます。それで「主はこう考えられた」と書かれています。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」何と言う信頼関係でしょうか。アブラハムは人、主は神です。しかし、全く神に信頼するものを、神も信頼します。アブラハムは主が何をしようとしているかをすでに判っていました。彼は主がわざわざ天から来られる重大さを悟っていました。ソドムとゴモラは今や風前の灯でした。アブラハムは必死にとりなしの懇願をします。もし、そこに50人の正しい人が居たら…45人なら…40人…30人…20人そしてついに10人。そこには10人の正しい人も居なかったのです。「主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。」こんな祈りをしたことがありますか? うらやましいですね。その後のソドムとゴモラの運命は良く知られたところです。ソドムとは現在の英語の sodomy として残っているように同性愛の町でした。これは同じように噴火によって滅びたポンペイも同じです。しかし、今日のサンフランシスコやロサンジェルスその他アメリカの至る所がソドムやゴモラのようになっています。アメリカも近い内にソドムとゴモラの運命をたどるでしょう。
さて、話は変わるのですが、私は自分の機関紙カウントダウンの読者の中から希望する方に週報とメッセージを送っています。しかし、時々、もう要りませんと言ってきます。これは本当にがっかりします。今度、そういう手紙が来たので「分りました、ついでに“天国のいのちの書”からも除いておきます…冗談です」と書いて送りました。
しかし、これは実は半分は本当のことです。マタイによる福音書16:19には私たちにはそういう権限が与えられていると書かれているのです。
「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
これは使徒のペテロにイエス様が与えられた権限です。しかし、その権限が与えられたのはペテロがイエスを神の子、救い主ですと告白した時でした。ですから私たちプロテスタントはこの権限がペテロと同じ信仰告白をしたもの全てに与えられていると信じています。もちろんむやみやたらにこのような重大な権限がまかされるとも思えませんが。
いのちの書とは何でしょうか。
「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」黙示録20:12〜21:1
皆さん、私は聖書を文字通り信じています。ここに書かれていることも必ず起こると信じます。これは最後の審判と呼ばれている神の大いなる裁きの日の事です。ここに書かれている数々の書物には何が書かれているのでしょうか。一つの見解はすべての人間の人生の記録ではないかという事です。私たちの人生の一分一秒に至るまで記録されているのかも知れません。そんなに膨大な書物を読む時間があるのでしょうか。天の国においては時間というものはありませんからそれは全く関係ありません。何と恐ろしい事でしょうか。しかし、感謝してくださいいのちの書に名が記されている人は火の池に投げ込まれないとあります。この書は別名を「小羊のいのちの書」とも呼ばれています。小羊とは主イエスキリストの事です。
「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。御使いはまた私に、『これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。』と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。『見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。』」同21:27〜22:7
私たちのために十字架に掛けられたイエス・キリストの流された血によって書かれたいのちの書に名が記されている人はこのように神の国に永遠に住むと聖書は言っています。
このことはローマ書にもパウロの口を通して保証されています。
「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」ローマ8:30〜39
私たちをキリストの愛から引き離す事は誰にも出来ません。たとえ有珠山のように地は変わり山は海の真中に移っても、私たちに対する神の愛、キリストの流された血の救いは変わらないのです。だれひとりそのような救いを受ける資格はないのに、ただ、一方的な恵みによって私たちの永遠の住まいは決まっているのです。
あなたは小羊のいのちの書に名を記されていますか? 記されるにはどうしたら良いのでしょうか。ただ、イエス・キリストの十字架の救いを受け取るだけです。「信じます」。その一言だけです。そんな簡単な事ですか? 不思議な事ですが、そうなのです。