メッセージ 2000・3・26    小 石 泉 牧師

この世を愛して下さった

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」同(口語訳)


これは聖書の中心、福音の全てを言い表した言葉として有名です。しかし、最近私はこの「神がこの世を愛して下さった」という言葉が本当だろうかと思うことがありました。
この世は本当に神様に愛されて居るのだろうか。現在の世界を見ていると、とても神様に愛されて居るようには思えないのです。
日本語の神という言葉に聖書のGODを当てはめたのは日本のキリスト教会の大失敗だったと私は思います。それは元々が全く違う概念なのです。(元々はヘブル語のエロヒム、ギリシャ語のセオスで、神、礼拝の対称、の意味)日本の場合は上という意味でさえありました。敬うべき者、目上の人、位の高い人、尊ぶべき対称ぐらいでもかみと呼びました。
天皇や将軍も「お上」と呼ばれています。とても天地の創造者という聖書の意味とは比べものになりません。また、「ひとり子」という訳も適切ではありません。これはひとり、ふたりという数とは関係のない言葉で「〜から生れた」という意味です。英語ではもっと適切にbegotton son と訳されています。“王が自分の後継者として選んだ王子”の意味と考えられます。そして賜った、与えたとは命を捨てて下さったというわけです。それは、この世をむやみに愛したというのではなく「御子を信じるものが滅びないで永遠の命を得るため」だと言うのです。どうも世を愛されたというのは、この世をそのまま受け入れたというのではなく、世の中から特定の人々を選び出したという意味のようなのです。それは次の御言葉で一層鮮明になります。

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」3:17〜21

ここには明白に神を愛するものと嫌うものに対しての扱いの違いが書かれています。誰でも神を愛するものは神に愛されますが憎むものはしりぞけられます。人間は神様にいつも文句を言っています。

「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。』と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。』そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」ルカ23:39〜43

「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」 お前はキリストではないか、それなら自分を救い、我々も救ってみよ。これがキリスト共に十字架に掛かっていた強盗の言葉です。両手両足に食い込む釘の痛みに耐えながらでも、メシヤに悪口を言う人間もいれば、同じ苦しみの中で悔い改めて相手をたしなめイエス様に自分の未来を託す強盗もいましたが、これは本当にこの世の縮図と言えるでしょう。神様はこう言われます。

「『さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。』まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」イザヤ書5:1〜7

「そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか」。

ここに言うぶどう畑とは世界のことです。神様は良く計画されてこの宇宙万物を創造されました。まだ何かわたしがすべきことで残っていたことがあるか? わたしの創造にはまだ不足があったか? 神様は最善の環境を人間に与えました。しかし、人間は神様の期待には答えませんでした。「主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。」5:7(口語訳)

さて「ひとり子を下さった」と言うのは私たち人類のために身代わりとして十字架にかけられたという意味です。日本的に言うならキリストの功徳によって私たちは救われます。日本には小乗仏教という良く似た考えがあります。もともと仏教には他者の功績によって救われると言う思想はなかったのです。しかし、平安時代に空海、最澄らが唐に渡り景教の影響を受けた仏教を持ちかえりました。景教はキリスト教の異端と言われていましたがそれはカトリックから見た場合で実際は本当のキリスト教だったのです。ただ、彼らは正確な福音を伝えませんでした。そのため恐らく空海、最澄から法然を経て小乗仏教の浄土真宗を開いた親鸞は歎異抄で「善人なおもて往生す、いわんや悪人においておや」善人が救われるなら悪人も救われると少々勘違いの福音もどきのことを書いています。聖書は罪人が救われると言っているのです。イエス様は「わたしが来たのは罪人が悔い改めて救われるためだ」と言っておられます。そのためにはキリストの一方的な十字架の贖い、罪の許しがなされました。
罪が許されると永遠の命が与えられます。私たちは死んで終りになるものではありません。私は最近あまりにも多くの殺人事件が起こることに驚いています。あるいは事故で多くの人々が突然その人生を終わるのです。これはあまりにも不条理ではありませんか。80年90年と生きるべき人がその途中で終わってしまいます。あとの人生はどこに行ってしまったのですか。高山姉妹の友人が新茂原の駅で電車を待っていると、突然、隣の人が入ってきた電車に飛び込んだそうです。しばらくは息があって無人駅のために乗客が手当てをしたそうですがやがて息絶えたと言うことです。

「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」ルカ12:4〜5

キリストははっきりとここで人間の命は2つあると言っておられます。私はその方がずっと納得できます。人間はこのはかない肉体の命で終わるのではなく、魂の方がずっと、永遠に生きるのです。問題はその生きる場所です。キリストはゲヘナに投げ込まれることを恐れなさいと言っています。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」とあったことを思い出してください。これは真実です。御子キリストを信じるものは裁かれないのです。もうゲヘナに投げ込まれない保証を得ているのです。そんな虫の良い話があるものか。いいえ、人間は虫の良い話でなければ救われません。人間は自分の功績、自分の功徳では救われないのです。キリストの功徳で救われるのです。小乗仏教は菩薩の功徳で救われると説きました。しかし、そこには保証はありません。単なる創造の存在に過ぎません。しかし、神の一人子キリストはこの世に来られ、わたしたちの罪のために身代わりとなり十字架に掛かり贖ってくださいました。その十字架の後さえ発見されています。聖書の正確さは驚くばかりです。十字架も復活の墓も聖書の記事の通りに発見されています。
人は死んだらどこに行くのですか? 途中で死ぬこのおびただしい人々はどこに居るのですか? 聖書は彼らはしばらく眠っていると書いています。

「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」Tテサロニケ4:13〜17


もうしばらくすればこの御言葉の通りになるでしょう。それまで私たちの内の幾人かは眠ることになるでしょう。しかし、私たちは目覚めた時、キリストと共に永遠の命にいることでしょう。それまで、ひとりでも多くの人々にこの真理を伝えたいのです。