メッセージ 2000・3・12    小 石 泉 牧師

神の前に富むもの

中国から帰ってきて、すぐに二つの事件が起きました。一つは地下鉄の脱線事故です。北朝鮮で数千人が死ぬ大事故の話を聞いたあとなので4,5人の死者で大騒ぎする日本は平和で幸せなんだと思いました。もちろん4,5人でも許されないことは当然ですが。
もう一つはプレイステーション2の発売騒ぎでした。一方で餓死者数百万人という話を聞き、今でも命懸けで逃げてきた人々に会ったその数日後に、たかがテレビゲームで徹夜するだのと、手に入れるのに目の色変える人々に唖然としました。この同じ星の上でどうしてこうも大きな違いがあるのだろうと、自分の中で消化しきれないかたまりがあります。
イエス様のたとえ話を思い出します。

「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」ルカ12:16〜21

まるで今の日本の姿ではありませんか。「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者」ではありませんか。もちろん私たちは地球上の全ての国々の人々と同じ生活をすることなど出来ません。自分に与えられた環境に則して生きるべきです。しかし、神の前に富むということは世界共通の生き方です。私はこのことをクリスチャンは本当に真剣に考えるべきだと思います。神に捧げること、貧しい人を援助することにもっと熱心になるべきです。それはあなたの富を増し、心を豊かにします。特に年をとったらこのことは必要です。年を取ると自分の老後の生活の不安が増すからです。しかし、神の前に富む時、その不安は無くなります。決して大きな金額を一度に捧げる必要はないのです。少しづつでもいつも捧げることが秘訣です。1400円で北朝鮮の一家族を3ヶ月間養えるのです!
これが神の前に富むということの秘訣の一つなのです。

「ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。ルカ16:19〜31(口語訳)

この世で富むことは全ての人々の願うことです。しかし、富んでいる人が神の祝福を受けているというわけではありません。このたとえ話の場合、ラザロという実名がありますから本当の話だったのかも知れません。ラザロは神に信仰を持ち、永遠の命に期待していました、しかし金持ちは神に信仰を持っていませんでした。そして自分の永遠の居場所について関心がありませんでした。ラザロは生涯貧しく死んでアブラハムのふところに憩いました。この場合まだイエス様が十字架に掛かり人類の罪の贖いをしていなかったのでアブラハムの信仰の約束が救いとなっていますがイエス様の十字架以降はイエス様のふところになります。
ここにも現代の日本の姿があります。彼らは永遠に対する関心が無いのです。「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」との言葉は本当です。神に従うことは死後の生活だけではなく今の生活にも必要不可欠なのです。余りに多くの人々がこの事に関心を持たずただ現在の生活だけを思っています。クリスチャンでさえそういう場合があるのでびっくりします。どうして多くのクリスチャンが世の人のように、この世のことだけに関心を持っているのでしょうか。神は人に永遠を思う思いを与えられたはずなのです。

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」伝道の書3:11(口語訳)

あなたの永遠の本籍地をいつも覚えてください。
さてしかし、こうして神の前で富むものになり、永遠を思う者となったら、どう生きるべきでしょうか。

「ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」ルカ17:710

私たちは神のあわれみによって救われ、恵みによって生かされています。しかし、しばしば恵みを権利、あわれみを義務と考える間違いが起こります。私たちに与えられる恵みは私たちの権利ではありません。神のあわれみは神の義務ではありません。私たちはただ神の一方的なあわれみによって救われ、恵みによって生かされているのです。世の人々はそのように言うとあまりにも卑屈だというかも知れません。私たちはキリストを主と呼びます。それは自分がその方のしもべだと言っているのです。しもべとは奴隷ということです。私たちはキリストの奴隷です。それも自発的な奴隷なのです。昔、奴隷から解放される場合、自分がその人に生涯、奴隷として仕えたいと願う人は耳たぶにきりで穴を通しピアスをしました。(今のピアスはその名残)それを終身奴隷と呼び、それは主人にとっても奴隷にとっても名誉なことでした。そして奴隷は上の御言葉のように主人の前にへりくだって歩むべきです。時々、恵みを権利、あわれみを義務と考える人々が教会に来ます。
私たちは常にへりくだって歩むべきです。
さて、時に神様はある民族、国家、文明を滅ぼしてしまわれます。ヨシュア記を読むとしばしばある町を皆殺しにせよという命令があって驚かされるのです。しかし、それは当然なのです。

「日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。そこで、アブラムに仰せがあった。『あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。』」創世記15:12〜16

神様がアブラハムに、お前の子孫にこの地を与えると言われてから、実際にイスラエル人がパレスチナを占領したのは約600年後のことでした。それは「エモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである」と言われたからです。昔、国々はその宗教によって残虐で罪深い憎むべき行いをしました。幼児を生きながらに生け贄にすることはよく行われたことでした。それは中近東から南米まで世界各地で行われました。インカのピラミッドの下からは何十万人という幼子の頭蓋骨が発見されています。このように残酷で放縦な文明、民族、国家を神様が許すはずはありません。その罪が満ちるまで待って滅ぼされても当然のことです。今、日本は生け贄こそありませんが、あまりにも真の神への信仰がありません。この国の未来について心配しています。しかし、少なくともあなたは、神の前に富むもの、永遠の居場所に関心を持つもの、神のしもべとしてへりくだって歩むものであってください。