メッセージ 2000・1・30 小 石 泉 牧師
聖霊による洗礼
〈今回は大変重要です。保存して下さい。〉
クリスチャンになる時、誰でも水で洗礼を受けます。洗礼はギリシャ語ではバプティゾーと言い、浸すという意味です。ですから教会では水の中に全身が漬かる浸礼を行いますが、教派によっては頭に水を垂らす滴礼の場合もあります。形式はどうであれ受ける本人の決心が大切です。心から信じた時受けるのです。さて、しかし、イエス様が地上に来られた時、その先駆者となったバプテスマのヨハネは不思議なことを言いました。それはこれから来るメシヤは「聖霊によって洗礼を授けるだろう」というものでした。それはよほど大切な事だったらしく4つの福音書の全てに記録されました。
「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」マタイ3:11
「彼は宣べ伝えて言った。『私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」マルコ1:78
「ヨハネはみなに答えて言った。『私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。』」ルカ3:16
「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が「私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。」と言ったのは、この方のことです。私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。』またヨハネは証言して言った。『御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。「聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。』その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、『見よ、神の小羊。』と言った。」ヨハネ1:29〜36
イエス様を紹介するのには「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉が一番適切でしょう。ところがその言葉を記録しているのはヨハネだけであとの3人は「聖霊によってバプテスマを授ける方」というものでした。(ルカだけは火を加えている)つまり、ヨハネがイエス様を紹介するのに最も大切なことと考えたのは“聖霊によってバプテスマを授ける方”だったのです。これは意外なことではありませんか。さらに十字架にお掛かりになり復活され天に帰られる前に弟子たちに言われたのはやはり聖霊を受けることでした。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」ヨハネ20:19〜22
イエス様はここで弟子たちに息を吹きかけるという奇妙な行動をされました。創世記で最初の人間アダムを造られた時「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」創世記2:7 と書かれています。ヘブル語で息と霊は同じ言葉“ルアッハ”です。すなわち神の息、霊を吹き入れられた時人は生きるものとなりました。しかし、罪を犯しエデンを追われた時、この神の霊は取り去られたと考えられます。イエス様は思わずそれをしたのだと思います。それは今から去って行く自分の代わりに弟子たちを導く聖霊をどうしても受けて欲しいという心の表われでしょう。聖霊を受けるということは聖霊のバプテスマとして知られる体験とは異なります。誰でも「イエスは主である」と告白する人はその内に聖霊を受けています。
「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ。』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」Tコリント12:3
とある通りです。しかし、聖霊が住んでいる(Resident)いるのと、王となっている(President)のでは大きな違いがあります。
聖霊のバプテスマは人が自我を聖霊に完全に明け渡した時に起こります。その時、超自然的なことが起こるのです。
「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」使徒行伝1:3〜5
復活された後に天に上げられる前もう一度イエス様は聖霊を受けよと言われました。そして聖霊のバプテスマとは何か判らないままで弟子たちは祈りながら待っていました。
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」使徒行伝2:1〜4
ここで炎が舌のように現れたのではなく舌が炎のように現れたことに注意して下さい。舌というのはギリシャ語でグロッサといいます。そして他国の言葉はグロッソラリアといいます。この言葉は異言とも訳されています。要するに判らない言葉という意味です。
1900年ロスアンジェルスのアズサストリートにある馬小屋の教会で、この異言を伴う聖霊のバプテスマが現れた時、大きな疑問と反対の声が上がりました。そして、大きな迫害が起こりました。それらの主なものは次のようなものでした。
聖書には他国の言葉と書かれているのに訳の分らない言葉だ。
異言はやみとあるではないか、あれは初代教会で終わったのだ。
聖霊のバプテスマは信じた時自動的に与えられたはずだ。
Tコリント13章のように更に勝った恵み、愛を求めるべきである。
Tコリント12章にあるように異言は聖霊の賜物だから全ての人が語るわけではない。
1に対しては他国の言葉というのは翻訳上の意味です。実際は判らない言葉という意味です。また、時に全く習ったことの無い言葉を語ることもあります。パウロ先生は「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」Tコリント13:1 と言っていますがこれは異言のことと推測されます。
2に対しては、異言はやみとあるのは次の個所です。
「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」13:8〜13
もし異言がやんだなら、知識もすたれたはずです。知識はすたれたでしょうか。また完全なものが現れたらとありますがそれは何を表しているのでしょうか。私たちは完全に知ったでしょうか。ここは初代教会を表しているのではなく、これから起こる主の再臨を表しているのです。異言はまだやんでいません。忘れられていただけです。
3に対しては次の言葉に注目して下さい。
「ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、『私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。』と言った。 ペテロは彼に向かって言った。『あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。』シモンは答えて言った。『あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。』」使徒行伝8:15
ここには使徒たちが「人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである」と書かれています。水のバプテスマを受けたからと言って自動的に聖霊を受けるわけではないことが判ります。また魔術師のシモンは金で聖霊のバプテスマを買おうとしました。それは目に見え、第三者の魔術師が金で買いたいと思うほど目覚しい不思議な体験だったのです。また、
「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。『この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。』そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。」10:44〜48
とあるように、この場合は聖霊のバプテスマが水のバプテスマの前にあります。さらに
「アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、『信じたとき、聖霊を受けましたか。』と尋ねると、彼らは、『いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。』と答えた。『では、どんなバプテスマを受けたのですか。』と言うと、『ヨハネのバプテスマです。』と答えた。そこで、パウロは、『ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。』と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」19:1〜6
とあるように、ヨハネのバプテスマだけで聖霊のあることすら知らなかった弟子たちに聖霊が下り異言や預言をし始めたのです。こういう訳で聖霊のバプテスマは水の洗礼を受けると自動的に受けるものではありません。4に対しては、愛を求めるのは私たちも同じです。しかし、聖霊のバプテスマは基本の教えでそれなしで愛と言うならそれは「二階のない三階建て」と言うようなものです。
5に対してはTコリント12章を良く読んで下さい。
「さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。」12:4〜12
確かにここには賜物として異言が書かれています。しかし、それでは同じ賜物に“信仰”とあるのはどうしてでしょうか。異言が賜物で特定の人にだけ与えられるものならクリスチャンの全てに信仰があるのはなぜでしょうか。これらの賜物はすべて浅い形で全てのクリスチャンに与えられているのです。そこから特定の人が自分の能力に応じて賜物を受けて行くのです。異言はその玄関になるのです。なぜなら異言はつまずきの石だからです。異言はへんてこなものなので自制してしまう人が多いのです。しかし、「神が与えるものは何でも受け取ります」という謙遜な態度が聖霊の賜物に道を開くのです。
私が30年牧師をやってきて確信できることは聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンは「手が掛からない」ということです。異言を語るからと言ってその人が完全になるわけではありません。ホーリネス教団のように完全な清めを受けるなんてありえません。しかし、一つだけはっきり言えることは聖霊のバプテスマを受けた人は自分の努力で信仰を継続する必要がなく、ごく自然に生まれつきのように神を信じ、神を意識することが出来ると言うことです。しかし、きよめとか、試みへの勝利とかは全く他のクリスチャンと変わりません。それは信仰の生活の中で訓練や忍耐を通して与えられて行くものです。また、異言を語らなければ聖霊のバプテスマを受けていないと断言することは出来ません。長い信仰生活の中で静かに満たされている人々にも会ったことがあります。しかし“聖霊のバプテスマを受けると異言を語ることが出来る”ということは出来ます。マルチン・ルターや多くの聖徒たちが異言を語ったという記録もあります。
聖霊によってバプテスマされるとなぜ言語を語るのかはヤコブ書にあります。
「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。」ヤコブ書3:2
最近になって人間の言語中枢は全身の神経を支配する事が分りました。聖霊が全身を支配された時、言葉が現れるのは当然です。しかし、これは一時的な現象で私たちは求め続けなければなりません。それでも一度でもこの経験をすると、喜びにあふれ、人が自分の所有物から神の所有に移されたという実感を伴うすばらしい体験です。「聖霊を受けよ」というイエス様の言葉は私たちに良いものを与えたいという思いから語られているのです。
「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」ルカによる福音書11:9〜13