メッセージ 2000・1・23    小 石 泉 牧師

二つの命

復活祭には少し早いのですが、最近のニュースにミイラになった子供たちの死体が発見され、彼らは復活するなどといわれているのを見て、改めて復活の意味を確認しておきたいと思います。考えて見ると復活についてはいつも復活祭にだけ話されるのですが、その時は復活の事実について強調されるので、復活の意味や内容についてはあまり話す事がないように思います。しかし、復活はキリスト教の中心なのです。

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」Tコリント15:3〜5

パウロ先生はここでキリストについて最も大切なことを3つ挙げています。それは主イエスの十字架と死と復活です。言い換えればキリスト教とは復活の宗教です。
私はクリスチャンではない人と話す機会が多く与えられていますが、彼らに共通することは一般の日本人共通の宗教観です。それは「どう生きるか」です。ある人からこう言われたことがあります。「先生は清く正しく生きなさいというようなことを教えるんでしょう」。私は「そんな分りきったことは教えません。もっと奇想天外なことを教えています」と答えました。彼は奇妙な顔をしてそれ以上は聞きませんでした。私たちが最も大切なこととして教えているのはどうしたら清く正しく生きる事が出来るかなどという当たり前のことではありません。そんなことはどの宗教でも教えてくれます。私たちが教えているのは死なない命があるということです。

「ところが、ある人はこう言うでしょう。『死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。』愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」15:35〜50

“地上のからだ”“血肉のからだ”“朽ちるからだ”に対して“天上のからだ”“御霊に属するからだ”“朽ちないからだ”という言葉に全てが語られています。ここに二つの命、二つの体が語られています。これがキリスト教の復活であり、日本人が理解できない真理なのです。これがクリスチャンの希望であり、信仰の中心なのです。キリスト教とは清く正しく美しくなんて事を唱えている宗教ではありません。
そしてその体は次のようにして与えられます。

「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』」15:51〜55

この体は自分の努力によって獲得するのではなく、キリストの努力、十字架の贖いによって無償で与えられます。これがキリスト教です。他のものは付属品に過ぎません。しかし、一般にはこれらの付属品がキリスト教と信じられています。
さて、私たちの場合は新しい体への変換はこれから来る時間の中の、ある日ある時に起こりますがキリストの場合はすでに起こりました。そしてキリストの場合は地上の肉体そのものが無くなるという意味で少し私たちと違っていました。それは私たちはたちまち一瞬のうちに“変えられなければならなかった”のですが、キリストの場合は“変えられる必要はなかった”からです。私たちには罪(原罪)がありキリストには無かったからです。
キリストの地上の体そのものが、私たちが天で着るからだだったのでしょう。

「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。』」ルカ24:17

「ここにはおられません。よみがえられたのです」。これこそ人類始まって以来の最大のニュースです。人はよみがえる。前に読んだように最初の人アダムは罪を犯して死ぬものとなりました。しかし、最後のアダムは、「生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。」ちょっと難しくなりますが、ここで御霊と書かれている言葉は私なら霊と訳します。聖書は聖霊と人間の霊を同じ言葉で書くことがあります。それが神の霊、聖霊か人の霊かは翻訳者の判断に掛かっています。さらに、

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」Tコリント15:20

とあります。 一方、人間の場合はヨハネ11章にあるラザロの場合のように、一度復活してもその体はもう一度死にます。また次のようにも書かれています。

「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」黙示録20:4〜6

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」マタイ10:28

どうして多くのクリスチャンが殉教して行ったのでしょうか。それはこの第一の復活を願っていたからです。彼らにとって第二の死こそ本当に恐れるべきものだったのです。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」Uコリント4:16〜5:4


「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」この言葉が理解できますか。これは真実です。
これこそクリスチャンの希望なのです。私たちは死を解決した人類です。クリスチャンは永遠に生きる新しい人類なのです。これを馬鹿げた妄想と見ますか。それでは他に希望がありますか。私はこの希望にすべてを賭けました。これこそ本当のキリスト教です。こういう希望を持っていないクリスチャンがいるとしたら、それは全く的外れの思い違いをした、ただのあわて者に過ぎません。
よみがえり。キリストにある希望。これが私たちの命です。