メッセージ 2000 1・16 小 石 泉 牧師
Simple Life in God
(神に在る簡素な生活)
昨晩、何気なくつけたテレビに釘ずけになってしまいました。それはガンジス河の上流、ヒマラヤ山脈の谷間にある小さな村の話でした。峨々とそびえる6000メートル級の山々は、クイーンズティアラ(女王の王冠)と呼ばれる美しい峰々です。しかし、2500メートルの高さにあるこの村の周りはほとんど草木の無い荒涼とした岩の大地に、そこだけオアシスのように緑の村があります。ここを日本の女優さんが訪れるのですが、そこには電気もなくあるのは風と花の香りと人のぬくもりだけです。私はふとカラーテレビでこういう情景を見れるのは幸せだなあと思いながら、いや待てよ、カラーテレビもないこの村に住む人と私はどっちが幸せなのだろうと思いました。
私たちはものに溢れ、便利極まりない国に生活しています。しかし、反面、犯罪は極限まで増加し、凶悪になり、人々の心は不安に満ち、イカサマ宗教が人々の心を撹乱しています。今、私たちはもっと人間の原点に戻るべきではないのでしょうか。
「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」マタイ6:25〜34
イエス様の言葉は平安に満ちています。私たちはあくせくあくせくと何を求めて生きているのでしょうか。それらは本当に必要なものなのでしょうか。毎日、新聞と共に入ってくる分厚い広告の中のどれ一つも私には欲しいと思うものがありません。私たちはある種の催眠術に掛かっていないでしょうか。もう一度本当に必要なものを確認してみましょう。
「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』」16:24〜26
全世界を手に入れても! 人は満足しないでしょう。今、私たちに必要なものはもっと多くの物ではなく、神とともに生きるシンプルライフです。こんな話をご存知でしょうか。ある実業家が南の島に行きました。すると島の人々がのんびりと暮らしていました。彼は人々に言いました「なぜ君たちはもっと働かないのかね」すると一人が答えました「働いてどうするのですか」「働いて金を儲けるのだ」「金を儲けてどうするのですか」「うんと金を儲けて、南の島に別荘を作ってのんびり暮らすのだ」「そんなことならもう私たちはやっていますよ」。 私たちの追い求めている豊かな生活も視点を変えればみじめな貧乏暮らしです。イエス様はこう言っておられます。
「このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」黙示録3:16〜19
これは正に現代の私たちの姿ではありませんか。本当に必要な神への信仰、愛、喜びを忘れていませんか。それ以外のものは瞬く間に失われ、“添えて与えられるもの”に過ぎません。イエス様が栄華を極めたと言われたソロモンは言っています。
「私は心の中で言った。『さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。』しかし、これもまた、なんとむなしいことか。笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も造った。私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」伝道の書2:1〜11
“風を追うようなものだった。”何と空しい叫びでしょうか。これから来る人々は自分以上の贅沢は出来ないとソロモン言っています。それは空しいものだったと。私たちは空しいものを追い求めるのは止めましょう。神に在る簡素な生活。それを求めるべきです。
「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。」Tテモテ6:6〜11
“満ち足りる心”“衣食があればそれで満足しなさい”。若い人にとっては少し酷かもしれません。聖書は30歳以上の成人を対象にしているとはカール・ヒルティーの言葉です。そして教会は禅寺ではありません。しかし、今はあまりにも物質に流され過ぎています。せめて壮年者や婦人たちはこの言葉を自分のものとしていただきたいのです。
知らず知らずのうちに私たちを蝕んでいる物質文明の毒。その毒に犯されて、しなくても良い苦労をし、やらなくても良いことをやり、心をわずらわせていませんか?
Simple Life in God.それを求めましょう。