メッセージ 2000・1・9 小 石 泉牧師
誰が敵し得ようか
「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。」黙示録22:10
私が間違ったことを本に書き、言ってはならないことを言っていると多くのクリスチャンが非難します。例えばキリストの再臨が2026年だと言っている。彼の預言はちっとも当たらない。彼は福音を語っていない。などなど。
私は再臨が2026年だとは言っていません。西暦はキリストの誕生から始まっているが(それさえ間違っています)メシヤとしての戴冠すなわち洗礼から始めるべきである。それは紀元26年である。それから2000年目に再臨があると仮定すれば2026年であると言っているのです。「もし2000年目なら」と、くどく注意して言っています。それでも間違えると言うなら我々はどんな議論も出来なくなります。私はノストラダムスのように水晶占いをしているのではない。聖書から結論しているのです。そして聖書は一部分だけが語られるべきではありません。「この書の預言のことばを封じてはいけない」と言う言葉は十字架の福音についてだけ言っているのではありません。イエス様は御自分の来られる時について「知らなくて良い」と言っていますが「前兆」についてマタイ24章で詳しくお話になっています。時間がここまで進んでくると前兆も見えてきて当然です。太陽は突然上がるのではない。東の空が明るくなるから判るのです。
私がこのような福音の語り方を始めたのはエホバの証人たちが誤った終末論で多くの人々を導いているからです。正しい終末論を知っているクリスチャンがどうして黙っているのでしょうか。この教会にも私の本を通して7人の人々が集っています。本を書けば御言葉をいっぱい書いているのに10000部は売れます。毎回80名以上の人々に機関紙を送り、その内10名以上の人々に週報とメッセージを送っています。私は断じて黙らない。なぜならこれも福音の一部だからです。聖書の言葉を部分的にも封じてはなりません。
さて私は福音の全てを語ります。今日はローマ人への手紙8章から学びます。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」1〜10節。
この個所は私には受け止めるのに困難を覚える場所です。私たちの内側には肉と聖霊とが共に住んでいて壮絶な葛藤を繰り広げているからです。時には聖霊が勝ち、時には肉が勝ちます。住むと言う言葉を英語では resident と言います、聖霊が住まれるだけでなく、President(社長、大統領)になった時私たちは聖霊に満たされたというのです。それは聖霊のバプテスマの時に経験できます。しかし、普通はこの二つの力が私たちの内側にはあるのです。
「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」11〜17
私たちは完全なものではありませんが、完全な救いを得ています。神の完全に至ることは私たちには出来ませんが完全な衣を着せていただきました。いや本当はいつか着せていただく保証を得ているのです。そして不完全なままで神の子であり、相続人です。
最近、莫大な遺産を相続する話を良く耳にします。日本は世界でも一番相続税が高い国なのですがそれでも何億、何十億と言う遺産を受け取る人がいます。時々、その百分の一でもあったらローンの返済が出来るのにと思います。しかし、私たちはこの世のものではありません。私たちの主は一銭もこの世にお金は残しませんでした。しかし、永遠の命を下さって、天地の創造者の相続人にして下さいました。これは嘘ではありません。私たちは死んだら確実にそれを見ることでしょう。その保証人はイエス様です。共同の相続人ですよ!
「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」18〜25
私たちが葛藤している、苦闘しているとここで言っているでしょう。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」毎日が感謝、喜び、信号はみんな青なんてことはないのです。クリスチャンゆえの苦しみ。人間ゆえの失敗。この人間の苦しみはアダム以来人間だけでなく被造物全体に及びました。体の贖われること、本当の救いはまだ来ていません。それは天において新しい体によみがえるまで“望み”なのです。しかし、それは単なる望みではなく聖霊の保証によります。その時まで「心の中でうめきながら」熱心に、待ち望むのです。
これも最近流行のインスタントな電子レンジ・リバイバルには無いことです。
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」26〜29
聖霊は私たちの祈りを神の御前に届くことが出来るように清め、助けて下さいます。そして、どんな事でも「神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」。口語訳では「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」とあります。万事を益として下さる!
信じられますか。今あなたの回りで起こっていることの全てはあなたには益となるのです! 私たちの味方は天地の創造者です。荒唐無稽と言われようと、聖書が言うのですから本当です。信じるか信じないかはあなたの自由です。
「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」30〜34
神は私たちをあらかじめ定め、召し、義と認め、栄光を与えられました。これはあきらかに選民思想です。パウロ先生はそれをユダヤ人ではなく、キリストにある人々に言っています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」これ以上何が必要でしょうか。あなたがそれを信じるならば実現します。
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」35〜39
まるで高らかに吹き鳴らされるファンファーレのようです。このような神の愛を信じないものは絶対にクリスチャンではありません。そういう不信仰なものは呪われよ。私たちが艱難に会おうと、苦しみに会おうと、迫害も、飢えも、裸にされることも、危険も、剣も、死も、いのちも、御使いも(サタンも)、どんなものも、主キリストにある神の愛から私たちを引き離しません。これがキリストにあるものです。誰も恐れません。誰にも騙されません。誰にも脅かされません。誰にもこの確信を奪われてはなりません。主の来られる日まで。アーメン、主イエスよ来りませ。マラナタ。