2000・1・2      小 石 泉 牧師

キリストの栄光

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
さあ、イスラエルよ、言え。『主の恵みはとこしえまで。』と。
さあ、アロンの家よ、言え。『主の恵みはとこしえまで。』と。
さあ、主を恐れる者たちよ、言え。『主の恵みはとこしえまで。』と。
苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。
主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。主は、私を助けてくださる私の味方。
私は、私を憎む者をものともしない。主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。
主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。
主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。
喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。主の右の手は力ある働きをする。
主の右の手は高く上げられ、主の右の手は力ある働きをする。
私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。主は私をきびしく懲らしめられた。しかし、私を死に渡されなかった。
義の門よ。私のために開け。私はそこからはいり、主に感謝しよう。これこそ主の門。
正しい者たちはこれよりはいる。私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。
家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。
これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。
ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。
主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。主は神であられ、私たちに光を与えられた。枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。あなたは、私の神。私はあなたに感謝します。あなたは私の神、私は
あなたをあがめます。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」
詩編118:1〜29


詩編118編はヨハネ福音書の12章と呼応する個所です。

「イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。『なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。』しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。イエスは言われた。『そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。』」ヨハネ12:1〜8

詩編118編には「主は私をきびしく懲らしめられた。しかし、私を死に渡されなかった。」とありますが、兄のラザロをよみがえらせてもらったマリヤはイエス様こそ本当の神の子、メシアと信じました。彼女は感謝と信仰を何とかして表したいと思いました。そこで高価なナルドの香油を惜しげもなくイエス様の足にかけ、自分の髪の毛で拭きました。それを目ざとく見咎めたユダは一瞬の内にその値段を計算して、何ともったいないことをするのかとマリヤを責めます。300デナリとは1デナリが一日の労働賃金ですから300万円もすると読んだのです。「彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」とあります。イエス様の弟子の中にこういう人物がいたとは悲しいことですがイエス様はそれを知っておられたのに処分しませんでした。マリヤの行為は自分の葬りの用意だとイエス様は言われました。マリヤはもちろんその事を知りませんでした。しかし、感謝を最大限に表す方法を行ったのでした。
やがてイエス様は預言の通りにエルサレムに入城されました。

「その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。『ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。』イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。『恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。』初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。」12:12〜16

この個所は「ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。主は神であられ、私たちに光を与えられた。枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。」と言う預言の忠実な成就(実現)でした。イエス様は自分がメシアであることを公然と宣言されたのです。ユダヤ人の指導者たちはあわてふためきます。しかし、その後イエス様は一向にユダヤ人が期待するメシアの行動を取りませんでした。それどころか非常に奇妙なことを言われたのです。

「そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこれらのしるしを行なわれたことを聞いたからである。そこで、パリサイ人たちは互いに言った。『どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。』さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、『先生。イエスにお目にかかりたいのですが。』と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えて言われた。『人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。“父よ。この時からわたしをお救いください。”と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。』そのとき、天から声が聞こえた。『わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。』そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、『御使いがあの方に話したのだ。』と言った。」12:18〜29

「さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、『先生。イエスにお目にかかりたいのですが。』と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えて言われた。『人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。』」


ギリシャ人がイエス様にお会いしたいと言うとイエス様は自分が“栄光を受ける時が来た”と言われました。これは不思議な言葉です。どうしてユダヤ人ではなくギリシャ人が会いたいと言った時に栄光を受ける時が来たと言われたのでしょうか。その栄光とは何でしょうか。
ここでイエス様が“栄光を受ける時が来た”と言ったのは自分が“死ぬ時が来た”と言う意味です。この後、1週間以内に十字架に掛かられたのです。
皆さんにとって栄光を受ける、あるいは栄誉を受けるとはどんな時でしょうか。オリンピックで金メダルを取る。文化勲章を受ける。東大に入る。大金持ちになる。プロ野球の選手やテレビタレントになって脚光を浴びる。そんなことでしょうか。しかし、イエス様にとっては、死ぬこと、それも多くの人の罪の身代わりとして十字架の死刑になると言うことでした。そのあがないはユダヤ人ばかりでなく異邦人にも及ぶものでした。新約聖書ではギリシャ人とはしばしば異邦人の代表として言われています。
あなたはこのような栄光を理解できますか? そのような栄光を自分も受けられますか? これは、今流行の繁栄の神学や可能性思考やリニューアルの奇跡の体験とは正反対です。こんな信仰はお嫌いですか? しかし、これはイエス様が栄光と呼ばれ神様が表された栄光です。そして言われました、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
自分に死ぬこと。自我に死ぬこと。自分の欲望のために生きるのではなく、自分を神に明け渡すこと。これはものすごく難しいことです。人間の自我も欲望も強烈なものですから。しかし、マリヤのように、ラザロのように(ラザロは殉教したと伝えられている)、多くの主の僕たちのように一粒の麦として死ぬものでありたいのです。マザー・テレサさんは厳密に言えば問題もあるでしょうが、自我に死んだ人のようです。歴史上多くの先輩たちが主の歩まれた栄光の道を歩いたのです。
私は先日、北朝鮮の孤児たちの映像を見ました。私は何もしないでは居れなくなりました。私は行きます。一枚のビスケットでもあげたい。それによって私が一粒の麦となっても良いから北朝鮮に行きたい。
兄弟姉妹、あなたはマリヤのように感謝の香油をささげますか。イエス様のように栄光を受けてもいいですか。それとも地上の富と地上の栄誉のために生涯をささげますか。何処にあっても、どんな職業をしていても、心にイエス様の栄光を求めて下さい。