1999・12・12     小 石 泉牧師

クリスマスの二つの家族

クリスマスの物語は改めて説明する必要のないものだと言えます。ただ聖書を開いてお互いにこの美しい物語を堪能しましょう。ここに重要な二つの家族があります。

「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」ルカ1:5〜7

最初に登場するのは年老いた祭司の家庭です。年老いたといってもまだ50歳ぐらいでした。民数記によれば祭司になれるのはレビ族の30歳から50歳までの男子に限られていたからです。

「三十歳以上五十歳までの者で会見の天幕で務めを果たし、奉仕をすることのできる者をすべて登録しなければならない。」民数記4:23

ザカリヤさんは清く正しい立派な人だったのでしょう。しかし、この御夫妻には悲しい事実がありました。それは奥さんのエリサベツさんが不妊の女だったからです。昔、不妊の女は神の呪いの下にある者とされていました。

「さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿にはいって香をたくことになった。彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていたところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、御使いは彼に言った。『こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子供たちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。』」1:8〜17

ザカリヤさんは大祭司であったのか普通の祭司だったのかははっきりしませんが、くじ引きによってとある事を見ると普通の祭司だったようです。そこに御使いガブリエルが現れました。そして子が産まれること、その子は神の選びの器でメシヤのために備えをする人であることが告げられます。また、その子は生涯神に献身するナジル人であることが語られます。ところがこれは非常に不思議なことでした。生れてくる子は正式に祭司になるレビの家系の子であるのに、ナジル人になると言うのです。一般にナジル人はレビ族以外の人が神に自発的に献身する場合にする誓いだったからです。祭司階級の人がナジル人になる必要はないのです。天使の長ガブリエルが遣わされると言うのはよほど重要なことです。(ナジル人については民数記6章)

「そこで、ザカリヤは御使いに言った。『私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。』御使いは答えて言った。『私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。』」1:18〜20

ここでガブリエルはザカリヤさんを裁いているように見えますが、実際はこのことが神から出たことであることを証明するためにザカリヤさんをおしにしたのでしょう。この場合のおしと言う言葉は耳も聞こえなくなると言う意味です。マリアさんも同じように疑問を言ったのにおしにならなかったのは、そういう証しが必要ではなかったためと神の子であり“ことば”である方を宿したからです。明らかにマリアに対するガブリエルの態度はゼカリヤさんの場合とは違います。

「人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思った。やがて彼は出て来たが、人々に話をすることができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、おしのままであった。やがて、務めの期間が終わったので、彼は自分の家に帰った。その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。『主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。』」1:21〜25

改めて言うことでもないのですが、この場合はマリアと違ってザカリヤさんの子を宿したと言うことです。聖霊によって身重になった訳ではありません。ただし、胎の中から聖霊に満たされていました。

「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。』そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。』マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」1:26〜38

世界にこれほど美しい物語があるでしょうか。マリアの場合は聖霊により神の子を宿したのですが、全ての女性はこのように、ある日、自分の身に新しい命が宿ると言う神聖な体験をします。この時、マリアは15、6歳のうら若き乙女でした。彼女はすでにヨセフさんと婚約していましたがまだ夫婦の契りは結んでいませんでした。しかし、法的には夫婦の資格がありました。
それにしてもマリアにとってどれほど驚くことだったでしょうか。戸惑い、不安。場合によっては街の広場に引き出され、ふしだらな女として石打の刑で死ぬかもしれないのです。「お言葉通りこの身になりますように」という返事は大変な決心だったのです。そしてこの少女の同意によって神様は御子を世に遣わすことが出来ました。人間の中にはこのように神の働きに決定的な役割を果たす人々がいるのです。これはもちろん夫ヨセフにも言えることです。事実、後年マリアは不義の女と言われています。ユダヤ人たちがイエス様に対して通常父の名前で「ヨセフの子」と言わずに「マリアの子」と言ったり、「我々は不義の中に生れたのではない」と言ったりしたのはマリアが不義の子を産んだと言ううわさがすでに当時からあったことを意味しています。
この二つの物語は平行して起こりましたが、一方は老夫婦、一方は若い男女と非常に対照的な面を持っています。そしてこの二つが一つの物語になるのです。

「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。そして大声をあげて言った。『あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。』」1:39〜45


天使の告知を聞いたマリアがそれを両親に告げただろうかといつも私は思います。一体どうやって両親に説明できるしょうか。「お父さんお母さん、昨夜、天使が来て私が身ごもったと語られました。」「そうか、マリアそれは良かったおめでとう」と言う両親がいたとしたらそれこそ奇跡です。また、いいなづけのヨセフさんにはどう言ったらいいのでしょうか。聖書はマリアの両親については全く沈黙しています。ヨセフさんについてはやはり相当悩んだことがマタイの福音書に書かれています。マリアは一つの選択をしました。それはガブリエルが言った親戚のエリサベツさんのところに行くことでした。私は恐らくマリアは両親には何も告げずに旅立ったのだと思います。「急いだ」と言う言葉にマリアの心情を察することが出来ます。マリアの住むナザレからエリサベツの住む山地にあるユダの町ヘブロンまでは約120キロほどありますから、15、6歳の少女が旅するには遠い距離でした。おそらく誰かが一緒に行ったのでしょう。
マリアさんがエリサベツのところに行ったのにはもう一つの理由があります。ユダヤでは女性が身の潔白を証明する方法がありました。それは祭司によってのろいの水を飲まされるのです。その女性が罪を犯していればその水は害がありませんが、犯していれば腹がふくれます。(民数記5章参照)ですからおじさんのザカリヤさんならマリアの潔白を証明してくれるはずです。道すがらマリアの思いはどんなだったでしょうか。どうやって説明すればいいのか。判ってもらえるのだろうか。しかし、心配は無用でした。マリアがザカリヤの家に着くや否や、まだ何も説明しないうちにエリサベツのおなかの赤ちゃんが踊り、エリサベツは大声でマリアを祝福したのです。
こうして先駆者ヨハネと神の子イエスはたった6ヶ月違いの親戚の間柄の中に生れたのです。誠実に神に仕える美しい心の人々によって、神の人類の救済と言う大事業が始まりました。私たちはその大きな働きのために若き乙女の決断と忍耐があったことを忘れてはなりません。マリアは生涯、公にはその潔白を証明することは出来ませんでした。
神の働きが、こうして、神のために自分を捨てる人々の忍耐と努力によって進められて行くとは何とすばらしいことでしょうか。このようなはしため、このようなしもべの働きを神様は喜ばれるのです。マリアの賛歌マグニフィカートと言われる歌を読みましょう。

「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」1:46〜55

 実に偉大なマリア。その信仰は永遠にほめたたえられるでしょう。そしてヨセフも同様に雄雄しい信仰者でした。ザカリヤもエリサベツも美しい信仰の人でした。彼らは反逆と不信仰、背信のイスラエル民族の中で燦然と輝く二つの信仰の家族だったのです。