1999・11・28 小 石 泉牧師
言 葉 と 形
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」ヨハネ1:1〜5
ギリシャ語でLogos(ことば)という言葉で表されているこのお方は、人のために形を取られました。神は人となりました。これはキリスト教の最も大切な教えです。日本では偉い人は死ぬと神になりました。明治神宮、乃木神社。さらに明治から第二次世界大戦まで天皇は現人神(あらひとがみ)、人となって現れた神だとされました。しかし、戦後天皇は自分は人だと宣言されました。もともと人だったから別に不思議でもありません。しかし、イエス様は神が本当に人となったのです。Logosである神は、人に見える形になりました。クリスチャンはそんなこと知っているよ、と言うかもしれませんが、このことの重要性が本当に分っていません。マリアから生れたあの方は元々は神だった。これがキリスト教の第一の特徴です。私は良くいろいろな教会のクリスチャンと接して、キリスト教の土台がほとんどあるいは漠然としか判っていない事があるのを見ます。私にとってこのことはわくわくするような不思議な出来事なのです。歴史上のある時、天地の創造主である神がこの地上に来られたのです。エデンの時以来33年半も滞在されたのは初めのことです。しかし、人々、それもこのことのために神が選び訓練し準備された民族はこの方を認めませんでした。この方があまりにも平凡な姿で現れたからです。しかし、その中でもごく少数の人だけがこのことに気付きました。
「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」1:9〜14 (口語訳)
ヨハネはこの方を最も理解した人でした。彼はその方が「恵みとまこととに満ちていた」と書いています。もしこの方が違う形で現れたら、人々は今よりもっと信じたかも知れません。しかし、それは恐怖と絶望の中ででしょう。
「『エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。』『正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。』『なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。』『わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。』」イザヤ書63:1〜6
怒りのために人間を踏みにじりその血で真っ赤に染まった衣を着ておられる主がもしそのままの姿で来られたら、人類は恐怖と罪責感で気絶するでしょう。これは黙示録1章13〜17節のお姿でも同じ事です。最も愛されたヨハネでさえ気絶したのです。
「それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。」
しかし、感謝なことにこの方は柔和で愛に恵みとまことに満ちておられました。この方は自分がそういうものだと言う事をあまり公には語りませんでした。まるでこっそりと話すようにたった一人の罪の女や盲人の乞食に語られたのです。
「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」ヨハネ4:25〜26
「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。『あなたは人の子を信じますか。』その人は答えた。『主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。』イエスは彼に言われた。『あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。』」9:35〜37
4章で女に言われた「わたしがそれだ」と言う言葉はヘブル語に直すと「在りて有るもの」ヤハウエ(誤読でエホバ)となると言う事です。9章の場合も同じでしょう。神が人となられた時、御自分の創造物を支配し睥睨(へいげい=見下して見る)する事も出来たのに、この方はまるで申し訳なさそうに語られました。この方の御性質が謙遜であったからです。
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」ピリピ2:6〜11
さて人となったことばは目に見えるお方でしたがこの方から出ることばも目に見える形となりました。
「イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。『主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。』イエスは彼に言われた。『行って、直してあげよう。』しかし、百人隊長は答えて言った。『主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに“行け。”と言えば行きますし、別の者に“来い。”と言えば来ます。また、しもべに“これをせよ。”と言えば、そのとおりにいたします。』イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。』それから、イエスは百人隊長に言われた。『さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。』すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」マタイ8:5〜13
「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」何と言う信仰の言葉でしょうか。時々、人間の中には神様の期待以上に信仰を表す人がいるのです。百人隊長(センチュリオン)とはローマ人の大尉に当たる軍人でした。彼はこの方が人となった神であり、この方の言葉が人を癒す事が出来ると信じていました。そして、その信仰の通りにしもべは癒されました。ヘブル書11:1にある通りです。
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(口語訳)
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」ヨハネ15:7
言葉は肉体となり、わたしたちの世界に来られました。この肉の形から出たことばは再び信じる者のうちに働いて形を与えます。キリスト教の土台の最初のものはこの“ことばが肉体を取った”と言う事です。それは受肉(Incarnation)と呼ばれています。これはユダヤ教にはない思想です。そして十字架による贖い。復活。再臨。この4つがキリスト教の中心です。これをしっかりと捕らえ、信仰を確保して下さい。そうすれば「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」ということばがあなたに実現するでしょう。
さて、ヨハネによる福音書には不思議な言葉があります。
「そこでイエスは言われた、『わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである』。そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、『それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか』。イエスは彼らに言われた、『もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある』」。9:39〜41
ことばが肉体を取り、見える姿になられたのは、「見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」というのです。これは一体何を言っているのでしょうか。それは謙遜と傲慢を表しているのです。私は何でも知っている。私は何でも見えるという人は実は何にも見えていないのです。私たちは知らなければならないことすら知らないのです。私には何も見えません、何も知りません。どうぞ私を導き、私に教えて下さい。これが神の人の態度であるべきです。イエス様が言っておられるのはそういう事なのです。神に近づく方法はただへりくだった魂だけです。
「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」
詩篇51:17
ことば、キリストは神であられたのに、人となられました。そして私たちに砕けた悔いた心の模範を表して下さったのです。