1999・11・14 小 石 泉 牧師
葉っぱのフレディー
葉っぱのフレディーという絵本のことが話題になっています。森繁久弥さんなど涙を流して感激しておられました。話の内容はフレディーという名の葉っぱが青々と茂っていたがやがて秋が来て枯れて地面に落ち、それが腐って養分となって新しい命の元になって行くというものです。私は、これは西洋人の書いた輪廻転生だと思いました。これはニューエイジの考えだろうとも思いました。ニューエイジというのは一言で言えば仏教なのです。今、多くの青い目のお坊さんが日本のお寺にはいます。彼らはキリスト教では満足できなくて仏教を学びに来ているのです。私は前から仏教はキリスト教と正反対の宗教だと思っていました。仏教は基本的には偶像崇拝ではなく哲学的な思想体系です。それは人間の思想であって、そこには一時的な慰めや安心はあっても本当の安心、永遠の真理はありません。偽りとごまかしに過ぎません。
この話が日本人に受け入れられるのは、それが自分が知っていることだからです。人は自分が全く知らないことには警戒心を抱きます。自分が判っていることを聞きたいのです。自分が判っていることを確認する時、安心します。麻原でも池田大作でもそんなに人々の抱いている思想とは違ったことを言っていないのです。自分たちが知っていて期待していることを上手く表現してくれるので喜んで聞くのです。
新しい人々が教会に来ると、初めから、こういう宗教を下さい、私が求めていることを与えて下さいというのです。ところが聖書は彼らにとっては奇想天外、摩訶不思議なことを語ります。天地は創造されました。そこには初めがあり終わりがあります。キリストは処女から生れ、死んで復活されました。そして再び来られます。罪人が救われ永遠の命を与えられます。
もちろんこういう不思議も仏教にはありますが、多くはどうでも良いことで、基本的には世界は永遠であり、初めも終わりもありません。人は命を得ていても移り変わるだけです。キリストの言われたことはどれも普通ではないし、どれもすぐには信じられず、どれも予想外です。ただし、その全てに命と愛と喜びの裏付けがあります。
聖書は
「初めに、神が天と地を創造した。」創世記1:1
と言います。そして
「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」ペテロ第二の手紙3:10
とあります。そこには明白な始まりがあり終りがあります。それは人間の知恵ではなく神の知恵です。そして、手っ取り早い解決ではなく、神への従順が要求されます。他の宗教は結局サタンへの従順を要求するのです。
「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』」コリント第一の手紙2:6〜9
さらに、この世の人々にはそれが愚かに見えると書かれています。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」コリント第一の手紙1:18〜25
「宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」なんという不思議で皮肉なことでしょうか。愚かさを通して救われるというのです。これは謙遜を求めているのです。神に会うには謙遜でなければならないのです。徹底的な謙遜こそキリストの道なのです。ですからこうも書かれているのです。
「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」コリント第一の手紙1:26〜29(口語訳)
「無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」なんと痛快な謙遜でしょうか。無きに等しいものですって! 本当にそう思えたら合格ですね。謙遜はキリストの性格、傲慢はサタンの性格です。光の天使ルシファーがサタンになったのは傲慢が原因でした。私たちの回りには何とサタンの性格を持った人々が沢山いることでしょう。謙遜を学んだ人は神の国を獲得するのです。
「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」ここに日本人は不滅を要求し、と入れましょうか。ところがいくら世界は不滅でも人間は滅びます。だから日本人は死に直面できません。死を恐れ、死なんて無いかのように振る舞います。お葬式から帰ったら塩を撒くのです。ある有名な俳優の葬式の時、勇ましい役を演じる俳優が「人間、死んじゃあいけねえよ、死んじゃあいけねえよ」と泣いているのを見ておかしな事だと思いました。
「私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』」コリント第一の手紙15:49〜55
私たちは滅びません。またフレディーのように他のものの栄養にもなりません。私たちは不滅の体を持つのです。キリスト教とは死なない宗教です。もちろんこの体は滅び、死にますが魂は新しい衣、体を与えられて生きるのです。多くの日本人の考えとは違います。さて、では私たちはどうやってこれらの人々に接したら良いのでしょうか。
「これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」コロサイ書3:14(口語訳)
どんな人にも愛は届きます。イエス様は自分を十字架につける人々に対して、父なる神に驚くべき祈りをしています。
「『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」ルカによる福音書23:33〜34
このような愛を私たちが持つことは難しいことですが、これしかない……のです。
「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」ヨハネ第一の手紙4:7
とあります。愛を与えていただきましょう。そして愛こそ永遠に続くものです。
「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」コリント人への第一の手紙13:13(口語訳)
エピソード
ある時、天国で天使長ガブリエルがイエス様に言ったそうです。「イエス様、あなたが御自身の命を捧げて開かれた救いの道を、あのような頼りない人間に任せておいてよろしいのですか?」イエス様は答えられました。「ガブリエル、他に方法はないのだよ。」