1999.10.31 小 石 泉 牧師
聖なる名のゆえに
「主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。」1歴代16:10
「主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。」詩篇105:3
「彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民であるのに、主の国から出されたのだ。』と言ったのだ。」エゼキエル36:20
「わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。」
「それゆえ、神である主はこう仰せられる。今わたしはヤコブの捕われ人を帰らせ、イスラエルの全家をあわれむ。これは、わたしの聖なる名のための熱心による。」エゼキエル36:21、39:25
神様の聖なる名を誇りとせよ。これはイスラエルに与えられた御言葉でした。しかし、イスラエルはその御名を汚しました。偶像崇拝、不道徳、無慈悲。イスラエルは神様の期待に答えるどころか、神に逆らい続けたのです。そこで神様は御自身の熱心によって御名の誇りを取り戻そうとされました。私たちもまた神様の期待に答えられない弱いものです。しかし、私たちの不信仰や弱さに関係なく、神様は御自身の理由で大いなる事をなさるのです。日本において神の御名は侮られ、汚されていますが神様は御自身の基準で大いなる事を始められるでしょう。
「カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか。」ヨシュア7:9
エジプトを出て40年たち、カナンに向かったイスラエルがエリコを落としながら、小さなアイの町に敗北した時、ヨシュアはこのように祈りました。“あなたはあなたの大いなる御名のために何をなさるのですか。”すばらしい祈りではありませんか。私たちもこう祈るべきです。これは私たちのためではなく、神の名誉に関わるからです。
「それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。」エゼキエル36:22
神は私たちの誤りやすい、自己中心の願いからではなく、神御自身のために事を成されると言うのです。
「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。」1サム12:22
「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。私たちの背信ははなはだしく、私たちはあなたに罪を犯しました。」エレミヤ14:7
またダビデは御名の力を知っていました。
「ダビデはペリシテ人に言った。『おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。』」1サム17:45
ダビデは巨人ゴリアテに対して戦うのに神の御名に寄り頼みました。
「アサはその神、主に叫び求めて言った。『主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください。』」2歴代志14:11
アサ王も百万のエチオピアの大軍に対するのに神の御名に寄り頼みました。
「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」詩編20:7
百万の軍隊も、戦車も、ミサイルも頼りにはなりません。ただ神の御名だけが本当の勝利をもたらすのです。
「あなたの民が、敵に立ち向かい、あなたが遣わされる道に出て戦いに臨むとき、あなたの選ばれた町、私が御名のために建てた宮の方向に向かって、主に祈るなら、」1列王記8:44
「そして、この宮、すなわち、あなたが御名をそこに置くと仰せられたこの所に、昼も夜も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。」2歴代6:20
神の宮は神がその御名を置くと言われた場所です。教会もそうだと信じましょう。
「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」詩編23:3
神様は御名のために、その名の偉大な故に私たちを導かれます。
「主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。」25:11
罪も咎も許されます。
「神よ。いつまで、仇はそしるのでしょうか。敵は、永久に御名を侮るのでしょうか。」74:10
「どうか、あなたを知らない国々に、御名を呼び求めない王国の上に、あなたの激しい憤りを注ぎ出してください。」79:6
御名があなどられ、御名を呼び求めない国は滅ぼされます。
「まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。」ミカ4:5 「わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける。」ゼパニ3:12
神を恐れ、御名に寄って歩む国。私たちの国が滅びないように祈る人々が必要です。
「あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。」イザヤ50:10
この御言葉は口語訳では
「あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。」
となっていてこの方がいい訳だと思います。神に寄り頼む時、神の御名を呼ぶのです。
「なぜ、あなたはあわてふためく人のように、また、人を救うこともできない勇士のように、されるのですか。主よ。あなたは私たちの真中におられ、私たちはあなたの御名をもって、呼ばれているのです。私たちを、置き去りにしないでください。」エレミヤ14:9
これなどほとんど喧嘩腰で神様に食って掛かっているようです。真剣な祈りは時にはこういうことになります。
「御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座をはずかしめないでください。あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください。」14:21
「主よ。私は深い穴から御名を呼びました。」哀歌3:55 どんな困難の中でも上は開いています。
そしていつの日か世界は神の御名だけがあがめられるようになります。
「主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。」ゼカリヤ14:9
私は神様が御自身の聖なる名の故に、日本を救って下さることを祈ります。それは丁度次の御言葉のように起こってほしいのです。
「主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。」 エゼキエル書37:1〜10
これはイスラエルの復活の預言です。しかし、私は日本の死んでいる魂の復活の幻を見るのです。私たちの同胞にも同じような救いが起こってほしい。枯れた骨のような群集。良くても「その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。」 息すなわち霊がありません。息と霊とはヘブル語では同じ言葉プニューマです。私は電車に乗って多くの人々を見るとき、ああ、この人たちには本当の命、霊の命が無いなあと感じることが良くあります。霊的には死んだ民族です。だから子供たちは叫んでいるのです。この国を生かすのは私たちの祈りです。「息に預言せよ」と神様は命じられます。神は聖なる名の故に事を行われます。その時私たちは側にいて、神の御名を高らかに宣言しましょう。息よ四方から吹いてこい。これはまるで聖霊に命じているようです。しかし、神様はあえてそうさせるのです。私たちは神様の代理人となって、霊に命じ、御名を呼びもとめ偉大なみわざを引き出すのです。
神よ、あなたの聖なる名の故に日本に命の息を送って下さい。