1999・10・3 小 石 泉牧師
パ ン
今日は少し変わったメッセージを致しましょう。聖書の中にパンと言う言葉が沢山出てきます。聖書のパンに関する話を取り上げたらきりがありません。一体、どれくらい出てくると思いますか。旧約聖書に248回、新約聖書に118回、合計376回も出てきます。これらの中からパンにまつわるお話をしましょう。イスラエルなど多くの国のパンは脱脂したりビタミンを抜いたりされていない自然のままのパンで、それだけでも十分食事となります。そしてもう一つのパンを見て行きましょう。
“すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」”マタイ4:3〜4
40日間の断食を終えて、空腹になられたイエス様にサタンが語った言葉です。もちろん空腹の中で、石をパンにする奇跡をイエス様はお出来になりました。しかし、人間の基本的な必要を手軽に満たすことによって、せっかく人間の姿を取られた神の子は、人間とはかけ離れたものになってしまいます。それは人間の基本的な生活の枠を超えています。もちろん神様はマナを降らすことの出来るお方ですが、この場合は一人の人間として生きることの基本的な姿を取るべきだったのです。この場合パンとは人間に必要な物質全てを表していると考えられます。そして人間にとって物質の必要に勝る必要は「神の口から出ることば」です。聖書を読むクリスチャンならこの事は当然と考えるでしょう。しかし、わたしたちの回りには何とこの大切な食物を食べていない、霊的に飢え渇いた人々がいることでしょうか。少年少女から老人に至るまで皆が霊的な虚無感、空虚さに悩んでいます。いろいろな事件の底に「神のことば」の無い絶望感がこの国をさいなんでいるのです。
“見よ。その日が来る。その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。”アモス8:11
私たちの成すべき事は何でしょうか。それは神のことばを人々に与えることです。
“イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。”ヨハネ6:35
ここにはダイレクトに人間の霊的糧、精神的な拠り所としてのイエス様の宣言があります。人間を59年間やってきてイエス様に出合ったほど大切なことはありませんでした。もし、イエス様に会っていなかったら私の人生は全く無意味で無機物か動物のようなものとなっていたでしょう。私はそういう自分を想像したくもありません。人生に困難や問題が無いと言うわけではありません。しかし、人生そのものの価値が無くなっていたでしょう。そしてそれがほとんど全ての人々の人生だと考えることは辛いことです。イエス様は間違いなく私の命のパンです。そしてさらに多くの人の霊の糧とならなければなりません。
“また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」”マタイ26:26
イエス様は御自分の肉を裂き救いを与えて下さるために、このように言われました。十字架の上で流された血と共に主の体は裂かれました。弟子たちはこの教えを固く守りました。それはその後、2000年間教会のもっとも重要な儀式として守られてきました。
“そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。”使徒2:42
驚くことにこのことはイエス様のはるか昔、アブラハムの時代からあったのです。メルキゼデクという不思議な人物がイエス様より2000年も前に予言として行っていました。
“また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。”
創世記14:18
ここは聖書の中で最初にパンが出てくるところです。このパンがキリストの御体を表すとはアブラハムには想像もつかなかったことでしょう。しかし、神様はその事をあらかじめ備えておられたのです。何と驚くべき神の知恵でしょうか。このメルキゼデクの祭司制が、イエス様の祭司の資格となりました。
“イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。”ヘブル6:20
イエス様はユダ族でしたから、レビ族しかなれない祭司の位にはつけませんでした。しかし、レビの祖父アブラハムの時にアブラハムが神の祭司と認めたメルキゼデクの祭司の資格を与えられ、メルキゼデクが持ってきたように、パンとぶどう酒を弟子たちに与えました。そして十字架の上で御自身が本当のパンとなりぶどう酒となられたのです。だから私たちは主の御体としての聖餐式のパンをいただくのです。
さて、こうして霊の糧としての御自身を与える一方で、イエス様は人間の実際の必要にも答えられました。イエス様はサタンの、石をパンにすると言う誘惑の挑発には乗らなかったのですが、自分一人の飢えに答えるなどと言う小さな奇跡ではなく、もっと大きな奇跡をもって御自身には不可能なことが無いこと、人間の日毎の必要に答えることの出来る方であることをお示しになったのです。
“イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。パンを食べたのは、男が五千人であった。”
マルコ6:34〜44
男だけで5千人。女、子供を入れると1万人以上の群集をたった5つのパンと2匹の魚で養うという、サタンも真っ青の奇跡をこともなげに行われました。イエス様は昨日も今日もいつまでも変わらないお方です。今もイエス様は私たちの必要に答えることがおできになります。
ところで家庭においてお母さんは子供たちに食事を与えます。日毎のパンを用意します。それはイエス様の時代も同じでした。
“人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。”マタイ24:37〜42
ここの御言葉の趣旨とは少し違うのですが、ここに家庭における母親の大切な仕事、日毎のパン作りの光景が出てきます。家庭で女は石臼をひき、麦を粉にしました。それはかなりな重労働です。臼から出てきた粉をふるいにかけ、純白の粉を水やミルクでパンにします。こうして家族にパンを与えるのがお母さんの役目でした。今はパン屋さんで買ってくれば済みますが、お母さんにはもう一つのパンの務めがあります。それは霊の糧であるイエス様のパンです。毎日、子供たちに命の糧である御言葉を祈りの石臼でひいていますか? イエス様であるパンを与えていますか。
子を思う母の愛がやはりパンにまつわる話として伝えられています。
“それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。”マタイ15:21〜28
もともとイエス様は御自分でもおっしゃっているように、「イスラエルの失われた羊」のために来られました。救いはアブラハムとの約束によって先ずイスラエルから始まるからです。しかし、イスラエル人はイエス様をメシヤとは認めなかったので救いが異邦人に及んだのです。この時にはまだイスラエルはイエス様を拒絶するまでには行っていませんでした。だからイエス様は「子供たちのパンを小犬になげてやるのは良くない」と言われたのです。しかし、娘を思う母の愛は「主よその通りです、でも小犬でも食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言わせました。何と言う信仰、 何と言う切実さ。この女性は完全にイエス様を信じ切っていました。イエス様が何者かを知っていました。この信仰を主は「あなたの信仰は立派です」とほめられました。あなたはイエス様をこのように認め、このような切実さをもって祈っていますか。私たちは主の祈りで「我らの日用の糧(パン)を今日も与えて下さい」と祈りますが、この女のようにパンくずまでは求めないのではないでしょうか。神の口から出る一つ一つのことば。それこそ今必要なものです。あなたはこのパンを持っています。それを霊的に飢え、渇いている人々に与えて下さい。