1999・9・19     小 石 泉 牧師

旧約聖書のキリスト

讃美歌66番「聖なる、聖なる、聖なるかな」

“ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』”6:16〜9

神を眼で見る。そのような体験はごく限られた人にしか出来ません。そしてその時でもそれは父なる神ではなく、肉体を取ってこられる前のイエス様です。ここでイザヤは栄光に満ちたイエス様を見たのです。世の人々は神の栄光、尊厳、偉大さについて全く知りません。蟻が象を見る以上に困難なことです。今日は旧約聖書の中に現れているイエス・キリストについて考えて見ましょう。イエスすなわちヨシュアという名前は出てきませんが、ヨシュアという名前自身が「主は救い主」と言う意味です。

“私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。” イザヤ書53章

イエス様の生れる750年も前に預言者イザヤは来るべきメシヤをこのように預言しました。(メッセージの中で、ある説教者の言葉を聞き覚えて“若枝”と言う言葉が“ナザレ”だと言いましたが、その後調べてみたところ確認できませんでしたので訂正します。)

“彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。”

イザヤは来るべきメシヤをこのように表現しました。彼はまだイエス様を見ていませんでしたが、まるで見ていたかのように書いています。そして私たちはイエス様が決してこの世の英雄や偉人のように人目を引く美しさや慕うべき魅力を持っていなかったことに注意しなければなりません。彼はさげすまれ、のけ者にされ、悲しみの人でした。何と顔をそむけるほどさげすまれた!とあります。しかし、それはこの世の基準であって信仰の眼で見れば違います。弟子ヨハネはイエス様をこのように表現しました。

“ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。”ヨハネによる福音書1:14

イザヤはさらにこの方のひととなりを預言します。

“まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。”

これは750年前に書かれた物とは到底思えません。それで19世紀にはこのイザヤ書がキリストの後に書かれたのだという主張がなされました。しかし、20世紀に発見された死海文書によってイザヤ書が今のままキリスト以前に存在していたことが証明されました。

“私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。”

一体、750年も前にこのように正確にこれから来る人を預言できるものでしょうか。これは神の霊によってしか出来ないことです。この預言の通りにイエス様は来られました。

“彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。”

罪なき神の子は罪人のように死に、富める商人アリマタヤのヨセフの墓に葬られました。

“彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。”

驚くほど正確にイザヤはイエス様を表しました。このように旧約聖書の人々はこれから来られるメシヤによって救いを受け、私たちはすでに来られたキリストによって救われたのです。イザヤはさらに具体的にキリストの預言をしました。

“しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。”9:1〜2

マタイはこの事を次のように記しています。

“これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」” マタイ4:14〜16

イザヤは更に不思議な預言を残しています。それはまだ一部だけが実現し、一部は実現していない様にすら見えるのです。

“ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。” 9:6〜7

“エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。” 11:1〜10


ダビデもまたメシヤのプロフイルを正確に伝えています。

“主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。” 詩編23編

イエス様は自分を「良き羊飼い」であると言われました。ダビデは何と1000年も前にこの事を言ったのです。彼はまるで私たちが見ているようにイエス様を見ていました。
彼は福音書のイエス様を知っているかのように書き、振る舞っていました。1000年前と言うことは今から3000年前のことです。まだ日本の国が生れてもいない時代、縄文式土器の時代です。この時にすでに救い主の明確なイメージが紹介されていたのです。
さらにヨブに至ってはダビデの500年以上前、1500年以上も前に、はっきりとメシヤを預言しています。彼は苦しみの中から神と人との仲介者の必要を見抜いたのです。

“今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。” ヨブ記16:19

“私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。” 同19:25

ヨブは新約聖書の書簡を先取りして書いています。彼は正確にキリストを語っています。まるでパウロのローマ書を読んだ人のようです。このヨブの預言は私たちから言うと3500年も前!です、これはもう世界の多くの予言など消し飛んでしまうような事実です。
このように旧約聖書にはキリストの姿が明確に表されています。旧約聖書は読みにくい本ですがこのようなことに視点を当てて読むと興味は尽きないのです。メシヤの預言はこの他にも300以上もあると言われています。