1999・9・5    小 石 泉牧師

ダビデの苦悩

トランプの4人の王様の名前をご存知ですか。アレキサンダー、カール大帝、ナポレオン、そしてダビデだそうです。このようにダビデは王の中の王、大王として歴史に名を刻まれています。では、なぜダビデはこのような偉大な王に成ったのでしょうか。それは神への愛からでした。私が聖書の中で最も好きな人物はこのダビデです。

“主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」サムエルは言った。「私はどうして行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」主は仰せられた。「あなたは群れのうちから一頭の雌の子牛を取り、『主にいけにえをささげに行く。』と言え。いけにえをささげるときに、エッサイを招け。あなたのなすべきことを、このわたしが教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」サムエルは主が告げられたとおりにして、ベツレヘムへ行った。すると町の長老たちは恐れながら彼を迎えて言った。「平和なことでおいでになったのですか。」サムエルは答えた。「平和なことです。主にいけにえをささげるために来ました。私がいけにえをささげるとき、あなたがたは身を聖別して私といっしょに来なさい。」こうして、サムエルはエッサイとその子たちを聖別し、彼らを、いけにえをささげるために招いた。彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思った。しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前にすすませた。サムエルは、「この者もまた、主は選んでおられない。」と言った。エッサイはシャマを進ませたが、サムエルは、「この者もまた、主は選んではおられない。」と言った。こうしてエッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んではおられない。」サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。”サムエル記T16:T〜13

モーセに率いられてエジプトを出てカナンの地に入ったイスラエルの人々は、その後、特別な指導者もなく住んでいましたが、何か問題があると神様は特別な人に聖霊を送ってイスラエルを治めさせました。その人々を士師(英語ではJudge)と呼びました。しかし、イスラエルの人々が自分たちも周りの国々のように王様がほしいと言い出したので士師であり預言者でもあったサムエルはサウル王を立てました。しかし、サウルは神様に不従順で、神様は別の王を立てる事にされました。それがこの個所です。エッサイの子供たちの中には立派な勇者たちがいましたが神様は皆違うと言われました。

「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

神様は人の内側を見られます。神様を騙す事は出来ません。そして、選ばれたのは一番末っ子のダビデでした。彼はまだ兄弟の中にも入れてもらえないほど幼かったので羊の番をしていたのです。

ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。サウルとイスラエル人は集まって、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ人を迎え撃つため、戦いの備えをした。ペリシテ人は向こう側の山の上に、イスラエル人はこちら側の山の上に、谷を隔てて相対した。ときに、ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。頭には青銅のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅で五千シェケル。足には青銅のすね当てを着け、肩には青銅の投げ槍を背負っていた。槍の柄は機織の巻き棒のようであり、槍の穂先は、鉄で六百シェケル。盾持ちが彼の先を歩いていた。ゴリヤテは立って、イスラエル人の陣に向かって叫んで言った。
「おまえらは、なぜ、並んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷ではないのか。ひとりを選んで、おれのところによこせ。おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。」そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負をしよう。」サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。Tサムエル17:1〜11

これは有名なダビデとゴリアテの物語です。英語でゴライアスと言うこの男は創世記6章の話に出てくるネピリム(巨人)の生き残りと思われます。身の丈6キュビト半と言いますから2m92cm、約3mの高さの大男でした。この男にかなうものはイスラエルにはいませんでした。しかし、まだ戦争に出る事を許されなかった少年ダビデはこの男が神様をあざけっている事が我慢できなかったのです。

“ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」”17:26

なぶるという言葉はどうもしっくり行かないのですが、ダビデのこの言葉は王のサウルに聞こえました。サウルはダビデを呼び寄せ、半信半疑で彼をゴリアテに向かわせます。こんな少年を誰もが恐れるゴリアテに向かわせると言うのも変な話ですが、私はもしかするとサウルはダビデがサムエルによって油注がれた事を知っていて、この機会に殺してしまおうと思ったのではないかと思います。とにかくダビデは自分の良く使い慣れた石投げでゴリアテを一撃の下に倒します。もちろん神様の助けがあってのことです。こうしてダビデは英雄となり「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」と歌われるようになりました。しかし、これからダビデの苦しみが始まりました。妬みに燃えたサウルの執拗な追求が始まるのです。それは詩編に書かれています。詩編は大部分がダビデの詩です。その中で彼は苦しみの中で神に信頼する事を連綿と書き綴っています。私は彼の詩を読んでいつも驚くのは、ダビデがいつも神様を見ているかのように書いている事と、どんな時にも神だけを誠実に信頼し、友のように真実をつくしていることです。彼はその人生の中で一時も神を忘れる事のない人だったのです。詩編55編1〜8節までに彼はこのような言葉を書いています。

神よ。私の祈りを耳に入れ、私の切なる願いから、身を隠さないでください。私に御心を留め、私に答えてください。私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています。それは敵の叫びと、悪者の迫害のためです。彼らは私にわざわいを投げかけ、激しい怒りをもって私に恨みをいだいています。私の心は、うちにもだえ、死の恐怖が、私を襲っています。恐れとおののきが私に臨み、戦慄が私を包みました。そこで私は言いました。「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら、飛び去って、休むものを。ああ、私は遠くの方へのがれ去り、荒野の中に宿りたい。あらしとはやてを避けて、私ののがれ場に急ぎたい。」

ダビデは苦しみ、うめき、泣きわめき、恐怖が彼を襲い、翼があったら逃れたいと言っています。このような苦しみを受けた事がありますか。このような祈りをあなたはした事がありますか。しかし、彼にはいつも救いがありました。

私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。彼の口は、バタよりもなめらかだが、その心には、戦いがある。彼のことばは、油よりも柔らかいが、それは抜き身の剣である。あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。”同 16〜23

“あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。同56:8

さすらい、涙の皮袋。ダビデの苦悩はこのように表現しました。
どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。27:9 見放さないで下さい、見捨てないで下さい。ダビデには神以外に全く頼りになる方は居ませんでした。

私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。34:1〜4

どんな苦しみの中でもダビデは主を賛美しました。到底賛美できない時にも、それが主から来たものだと信じたからです。その賛美はついに本当の賛美となります。

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。34:18〜20

ダビデの時代にはまだイエス様は来ておられませんでした。それなのに彼は私たち以上に神を現実の方と見ていました。詩編63編は圧巻です。

神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います。あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。

ああ、何と言うダビデの祈りでしょうか。あなたはこのように神を慕い、祈りましたか?神を求めて、渇き、慕って気を失うばかりです! だからこそダビデは神の最愛の人、と言われたのです。ダビデとは“愛された人”と言う意味です。サウルは罪の後に不従順でした。ダビデは罪の後に謝罪し従順でした。これこそ神に切る生きる秘訣です。ダビデこそ信仰の模範であり、勇者なのです。彼は大きな失敗をしたにもかかわらず、神の前に真実だったから神は彼を見捨てませんでした。
苦しみだけが人を清めます。悲しみが人を築きます。本当の喜びは本当の苦悩の結果生れるのです。誰でも神の愛の中にあります、しかし、ダビデは激しく神を愛したから、神も激しくダビデを愛しました。苦しみを恐れてはなりません。孤独を悲しんではいけません。ダビデのように祈るまで、信じるまで希望を捨ててはなりません。