1999・8・29 小 石 泉牧師
九十九匹と一匹
今日はコロサイ書の学びの前に導かれていると思いますので一つのお話を致します。
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」ルカ15:4〜7
羊飼いは夜になると羊を野原の囲いの中か洞窟に入れます。その時、羊飼いの杖の下を通る羊を数えるのですが、一匹がいなくなっている事が判りました。この羊飼いは他の99匹を囲いの中においてその一匹を探しに行ったのです。そして見つかると大喜びで、友達や近所の人に報告したというのです。これと同じように一人の罪人の悔い改めは天で多くの喜びがあります。
「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」ルカ5:10
しかし、それだけではなく救われた人々でもやはり失われた羊のようになる事があるのではないでしょうか。羊は自分を守る手段を持ちません。強い力もなく、角もなく、足も速くありません。羊が安全なのはただ羊飼いの下にいる時だけです。しかし、羊の中には本当に迷う者がいるそうです。あなたは孤独で、誰にも理解されず、失敗し、落ち込んでいるかもしれません。しかし、イエス様はいつもあなたを探しに来て下さいます。99匹の健康で安全な羊を置いて、一匹のあなたを探します。
ではコロサイ書に移りましょう。
コロサイ書講解−W
これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。1:26
奥義とはギリシャ語でミュステリオンといいます。ミステリーという英語の語源です。これはオカルトの世界では良く使われる言葉で、当時の異端も使ったのでしょう。パウロは
「果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。」第一テモテ1:4
「俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。」4:7
「真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」第二テモテ4:4
「ユダヤ人の空想話や、真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。」テトス1:14
と言っていますが、私はこの奥義と言う言葉が空想話だと思います。それは少しだけサタニズムを研究して判った事です。パウロは恐らくその事を知っていたのです。しかし、肉体を取ってこられた神の御子キリストこそ本当の奥義です。これは天使たちにとってどんなに驚きだったことでしょう。ガブリエルが「神様、私が代わりに参ります。」と言ったかもしれません。しかし、人間を救う道は全く罪なき神の子にしか出来なかったのです。「ガブリエル、他に方法がないのだ。」
神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。1:27
何とこの奥義はユダヤ人ではなく異邦人に与えられたのです!
「また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。『それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。』 また、こうも言われています。『異邦人よ。主の民とともに喜べ。』 さらにまた、『すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。』さらにまた、イザヤがこう言っています。『エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。』」ローマ15:9〜12
「それゆえ、主よ。私は、国々の中であなたをほめたたえ、あなたの御名を、ほめ歌います。」第二サムエル22:50
「すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。」詩編117:1
さらに少し長いのですが重要なので読んで下さい。
「では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。」ローマ11:1〜32
私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。1:28
知恵を尽くしてとあります。人間として考える事も必要なのです。
このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。1:29
これらの働きはすべてパウロの内なるキリストの力によるのです。それは弱く貧しい土の器である人間の中にあるキリストの力、デユナミス、ダイナマイトの力によります。
「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」ピリピ4:12〜13
そこには労苦があります。パウロの労苦はUコリント11:23 にあります。
「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」