1999・8・22     小 石 泉牧師

コロサイ人への手紙講解−V

その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。1:20

もう一度20節から始めましょう。普通、和解は双方の立場から行われるのですが、この場合は神様から人間への一方的な和解です。イエス様の十字架によって神と人との敵対関係はなくなりました。それはただ一回だけで完成し、二度と必要のないものでした。そして、この和解は創造された全てのものに及びました。
ローマ書8:18〜22に「 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」とあります。不思議な言葉です。キリストは人間のために十字架に掛られたのですが、その和解は万物の長として造られた人間を通して万物に及ぶのです。

あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。1:21〜22

イエス様は肉のからだ、人の体を取られました。人の身代わりになるためでした。そして私たちを神の御前に聖く、傷なく、非難されるところのないものとして立たせて下さるために死なれました。イエス様の死によらなければどうして私たちが神の前に立てるでしょうか。その御業はクリスチャンの内に継続的に起ります。

ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。1:23

信仰に踏みとどまる。しばしば私たちは信仰から迷い出てしまいます。踏みとどまる事は決して楽な事ではありません。しかし、恵みによって歩む事ができます。
天の下の全てのもの。あるインド人の伝道者がアフリカの奥地に行きました。これ以上は猿しかいないと言うところまで行き帰ろうとしました。ところが神様が沢山いる猿に福音を語りなさいとおっしゃいました。彼は戸惑いましたが、全ての造られたものにとあるでしょうと言われて、猿に向かって説教しました。終わって帰ろうとすると、猿に向かって招きなさいと言われました。そんな馬鹿な、と思いましたが、その思いが強くあるので猿に向かって「イエスキリストを信じるものは出てきなさい」と言いました。すると、何と猿の向こうのジャングルの中から沢山の原住民が出てきたのです。彼らはジャングルの樹の陰に隠れて聞いていたのでした。
また、アッシジの聖フランシスは小鳥に説教し、フランシスの説教の間、小鳥たちは後ろでさえずっていたと言われています。

ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。1:24

この時、パウロ先生はローマで囚人となっていました。しかし、それを彼は喜びと感じていました。そしてキリストの身体である教会のために「自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」という大胆な言葉を書いています。この苦しみと言う言葉はギリシャ語のスリプシスでキリストの贖いやいけにえをあらわす言葉としては一度も書かれていません。キリストの贖いの業は完全で欠けてはいませんでした。しかし、パウロは今天にあるキリストの司令の下に前線の兵士のように戦っているのです。彼は旧約聖書のモーセのように神の代理人として新しい契約、戒めのために苦闘していたのです。

「 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。」コリント第二の手紙3:6〜14

私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。1:25

パウロ先生はここでさりげない言葉のように見えますが重要な言葉を語っています。まず、彼の仕事は神からゆだねられたのであって、人からではない事。教会に仕えるものであって支配者や略奪者になる事ではない事。余す事なく語る事です。福音に仕えていてつくづく感じるのは人間的な動機ではできないと言う事です。神からの任命があって始めてできる事です。また多くの宗教の指導者たちがそうであったように仕えられ、富を蓄え、人々の上に君臨する者でなくあくまでキリストのように仕えるものです。

「あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」マタイ20:26

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」マタイ20:28

また、なかなか「余すところなく」は語れないものなのです。その点でもパウロ先生の偉大な働きを思います。