1999・8・15     小 石 泉牧師

コロサイ人への手紙講解−U

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。1:15

イエスキリストは、人が見ることができ、理解することができる形を取った神の完全な表象であり啓示です。当時も今も異端はイエス様が神から流出した、中間的な存在などといいます。しかし、イエス様こそ神の唯一で完全な啓示でこれ以上に必要なものは何もありません。ヨハネ1:1〜4、ヘブル1:2〜4、箴言8:22〜31、ヨハネ1:18 14:9、ヘブル1:3参照。
ここで“かたち”と言われている言葉はギリシャ語でエイコーンです。この言葉は肖像画、身分証明書をあらわす言葉です。その後カトリックでイコンと呼ばれる絵や浮き彫りになりました。
紀元325年小アジアのニカエアで開かれた宗教会議は当時大いに力を持っていたアリウスの“キリストは半神、天使の長、最高の被造物、居ない時があり、生れる前は居なかった”と言う説を廃しました。その中心になったのはアレキサンドリアの主教の従者だった若きアタナシウスでした。彼はアリウスの、キリストは神と同類(Homoiousios)ホモイシウスであると言うのに対して同質(Homoousios)ホモウシウスであると主張しました。この小さなi(イオタ)と言う文字のあるかないかにイエス様の神性が掛っていました。これをイオタ論争と呼びます。この“先に生れた”と言う言葉は彼らの期待するプロトクテイストス(先に造られたもの)という言葉ではなくプロトトコス(先に生れたもの)という言葉が使われています。しかもこのプロトトコスは時間的に早かったと言う意味ではなく称号です。これは聖書に良くある表現で、神の一人子という場合も数ではなく位を意味しています。詩編72:7、ヨハネ1:1、8:58、ヘブル1:2、10:5、黙示録1:17,2:8,22:13 参照。

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。1:16

万物は御子によって造られたのですから御子は被造物の一部では有り得ません。全ては御子によって造られたのです。王座、主権、支配、権威と言う言葉は天使的な諸霊力の分類です。キリストこそ全宇宙の目的であり終極です。しかし、その御子が地上に来られた目的はあなたです! あなたを救う為に全宇宙の創造者であり目的である方が来られ十字架に付けられ命を下さいました。黙示録22:13

御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。1:17

このような言葉は、普通の感覚では理解できないものです。一般の人々にとってはもちろんですが、クリスチャンでさえ正確に理解するには困難を覚えるでしょう。宗教改革者カルバンは「御子は御自分で造り給うた世界を御力によって育み、見守り、導き給う」と言っていますが、これとて神学では理解できても日常生活とは関係のない話と言ってしまえばそれまでです。恐らく私たちは死んだ後、神の国でその大きな出来事、事実、規模、不思議、美、輝きに驚き畏れることでしょう。

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。1:18

ユダヤ人は一人の人で民族全体を代表する考えを持っていました。アダムは人間の代表でした。だから“人”と言う言葉はベン・アダム(アダムの子)です。このように宇宙全体、霊的世界、物質的世界の全てを代表するお方はイエス・キリストなのです。かしらは身体の頭脳であり意志、支配、命令を下すところです。ところで不信仰な人々はこのような支配を束縛、圧迫と受け取ります。しかし、神は愛であり、神の支配は善以外のものではありません。あくまでキリストは自発的に御自分の力の行使を希望する人々にだけ頭脳であるのです。キリストの支配は本当の自由であり、キリストの命令は思いやりです。これは神の愛を体験した人でないと判らないことです。
また、死者からの復活という驚くべき側面でも主は第一となられました。一般に目に見えるもの現在あるものの第一と言う考えは誰でも考えつくものでしょう。しかし、死者からの復活と言う目に見えない世界を予測することは誰にもできなかったのです。復活の朝、サタンはどんなに驚いたことでしょう。こうして主は過去、現在、未来の全ての分野で第一の者となられました。

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。1:19〜20

聖書の記者が神のことを語ろうとする場合、人間の言語の限界にどれほど困難を感じたことでしょうか。ここに言う「満ち満ちた」と言う言葉もそうです。ギリシャ語でプレーローマという言葉ですがこれは完全、総体、充満などを意味する言葉です。ヨハネ1:16、ローマ11:12、13:10、15:29、エペソ3:19 などを参照して下さい。
異端がキリストの不十分性を言うのに対して、ここではキリストの中に神の全てが充満していると言っているのです。ニカエア信条は「神より出でたる神、光より出ででたる光、真の神より出でたる真の神、造られず、御父と同質なるお方」と言っています。エホバの証人に対しては今もこの信条の宣言が必要です。1600年も前のこの言葉が現在も必要であることは驚くべき事ですね。エホバの証人の信仰はアリウス主義の復活であるからです。サタンのやることはいつもワンパターンです。
ヨハネは福音書の1:14 で「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」と言っています。私たちは、今は御子を見ることができないので、この言葉の本当の意味を感じ取ることはできません。いつの日かこの方に会う時、どんなに感激に浸ることでしょうか。
私は水道の断水に備えて雨水のタンクを設けました。400リットルのタンクは一度雨が降るとすぐに一杯になります。しかし、今年の夏は20日間ほど雨が降らず、植木の水遣りの為に使っていたタンクは空になってしまいました。すると雨が降ると言う天気予報がありました。普通は屋根のほこりや泥が流れた後の比較的きれいな水を溜めるのですが、背に腹は替えられません、そのまま溜めると真っ黒な水が一杯になりました。そのうちにまた大雨が降りました、私はタンクの栓を開けて黒い水を全部流してしまい、中を洗って雨を待ちました。どしゃ降りの雨が来ました。少し経ったところでタンクに溜めるときれいな水が瞬く間に一杯になり、あふれて流れ出しました。ちょっと情けない例ですが満ち満ちるとはこんなことでしょうか。
私たちはこのようなお方を信じ、この方の宮だと言われているものです。私たちの内には満ち満ちたお方が居られるのです。いつも不足しているのがクリスチャンではありません。豊かに潤って、他人をも潤すのがクリスチャンというものです。祈る時、そう祈って下さい。いつも悲しい、苦しい、足りない、癒されたいではなく、豊かに満ち溢れて人を潤すものにならせて下さいと祈って下さい。
また「十字架の血によって和解させ」とあります。和解とは戦争状態にあるものが停戦することです。しかし、私たちの実感として神様と戦争すると言う感じはつかめないでしょう。これは罪によって神から離れた人間を、神が一方的に怒りを納められ和解の手を差し伸べられると言うことです。だからイエス様は戦争の終結の調印に乗って来る、ロバに乗ってエルサレムに入城されたのです。もし戦争を続けるなら馬に乗って来るのです。またノアの洪水の後に虹が出ました。昔戦争が終わった時、兵士らは自分の弓の弦を切って、弓を自分の方に向けたのです。虹は英語でレインボウと言いますが“雨の弓”の意味です。確かに虹は神が御自分の方に、すなわち天に弓を向けています。これはあるユダヤ人の説明です。キリストの血によって犠牲は払われ神は御怒りを収められ、和解の手を人間に差し伸べられました。もはや誰でも神の前に恐れなく近づくことが出来るのです。何と偉大なキリストの御業でしょう。