1999・8・1 礼拝 小 石 泉牧師
コロサイ人への手紙講解
説教には大まかに言って2種類の方法があります。テーマ(主題)メッセージと言われる、聖書の中から適宜に主題を拾って話すものと、講解メッセージと言って主題を選ばないで聖書の順序に従って学ぶ方法です。8月は5回日曜日がありますので、珍しく講解メッセージを致します。特に普段あまり話すことのないエペソ、ピリピ、コロサイ、テサロニケを学びたいと思います。このうちコロサイを最初に取り上げますが、別に理由はありません。
神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ。どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように。1:1〜2
ここでパウロは自分を使徒と呼びテモテを兄弟と呼んでいます。自分は使徒だと言うのはパウロの強烈な自己主張です。パウロはイエス様が生きている間は弟子であるどころか反対者でした。その点からパウロを使徒と呼ばない人々が多かったのです。ユダがイエス様を裏切った後、弟子たちはマッテヤを選びました。しかし、神様の御心はパウロでした。だからパウロは繰り返し“神のみこころによる”と主張しているのです。使徒と比較するのはあまりにも不遜かもしれませんが牧師になることも“神のみこころによる”以外では有り得ません。この難しい仕事に進んで励む人もいるでしょうが、私には出来ませんでした。私は召命を受けてから本当にためらい6年間も拒み続けました。私は自分がこんな大切な仕事にふさわしいとは思えなかったからです。そして今でもそう思っています。失敗の連続、人をつまづかせることの連続。後悔と涙。失望と落胆。しかし、不思議なことに辞めると言う考えは出てこないのです。口では辞める、辞めると言いながら、心ではそうは思っていませんでした。神様によって召されたから神様が決定されるのです。思い上がりと思わないで下さい。「神の賜物と召しとは変えられることはない。」ローマ11:29 とは本当だと思わずにはいられません。私たちは神様に一度ゆだねたら、神様の中から出ることは出来ないのです。
またコロサイの「聖徒たち」と言う言葉は“選び分けられた者”という意味です。クリスチャンは神様によって選び、分けられたと言う意味においてやはり使徒や牧師のように神様にとって貴重な存在なのです。そして忠実なと呼ばれています。信仰において大切なことが忠実であるということであるのは言うまでもないことです。あなたは千葉にいる聖徒ですか? あなたは忠実ですか?
私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。1:3
コロサイの教会はパウロがローマで囚人となっていた時生れたエパフラスと言う指導者によって形成されました。ですからパウロの直接の実ではないので少し他人行儀の感じがするのですが、パウロ先生に覚えられ祈られているということは何と幸いなことでしょうか。いや、実はイエス様こそいつも私たちのために祈り、覚えていて下さるのです。
それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。1:4〜5
コロサイは小アジア、フルギアの町の一つでBC5〜4世紀には大変繁栄していましたが、この手紙が書かれたAD60年頃には小さな町でした。(使徒行伝28章)しかし、多くのユダヤ人が居て彼らは裕福でした。この手紙が書かれた目的は、当時生れたばかりの教会に入り込んで来ていた異端思想グノーシス主義に対して警告するためでした。グノーシス主義は神を否定し、霊的世界を知る特別な知識(ギリシャ語でグノーシス)を求めよというものです。これは実に歴史の全ての時間の中に現れ、今でも強力に働いています。これはエデンの園のエバを誘惑したサタンの業であり、変わることなく人間を誘惑しています。マイクロソフト社のシンボル、かじられたりんごはこのグノーシスを表していると考えられます。パウロはコロサイの人々の純粋な信仰を称えているのです。また、愛という言葉はいわゆるアガペーです。
宇田 進先生はこの愛をこう表現しています。「人間に生来備わっているものではなく、相手方の値打ち、功績、素質に関係なく、受けるに値しない者を、進んで、ひたすら求め、交わり、結合することを求め続ける愛」。 パウロはここで彼の大きなメッセージである“信仰と希望と愛”を語っているのです。(Tコリント13:13)そしてまやかしの教えではなく“福音の真理”の中に見出したことを再度確認しなさいと言っているのです。
この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。1:6
信仰とは“聞き”“理解する”事から始まります。しかし、何と多くの方々が間違って聞き、理解していることでしょう。パウロはわざわざ「ほんとうに理解し」と書いています。聞きかじり、思い違い、先入観、センチメンタリズムなどがどれほど間違った理解をさせていることでしょう。
正しく聞かれ、理解された福音は「実を結び」「広がり続ける」のです。それはイエス様が「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。ヨハネ7:38(口語訳) と言われたように福音はあふれ流れて行くものなのです。 今、どうして日本にはそのような流れが現れないのでしょうか。私は根本的に考え直すべきだと考えています。ヨーロッパ化されたキリスト教でなく日本的なキリスト教があるべきではないのかと思います。
これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。1:7〜8
パウロは自分たちをしもべと呼んでいます。しもべは自分の意志で行動しません。しもべは主人の人格的通路(宇田師)です。ああ、本当にそうありたいものです。エパフラスはパウロに代わって仕えている忠実な仕え人と言われています。何と名誉なことでしょうか。その愛は御霊によるもので人間の生来のものではありません。
こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。1:9
あらゆる霊的な知恵、理解力、真の知識。これらは皆、異端グノーシス主義の強調していたものでした。スターウォーズと言う映画で“理力”と訳されている言葉はやはりグノーシス主義の言葉である
“Forth”です。それは 神の力ではない、自然界の超越的な力、不可解な源から来ると期待している力のことです。そのような悪魔的知恵、知識ではなく、神の知恵、神の知識、神からの理解力を正確に求めることをパウロは求めているのです。