テニスウィーク
2004年3月16日
最新の一見
文:Steve Flink


彼は15年間をプロテニス界で過ごし、高みを追求してきた。14というグランドスラム・タイトル記録を打ち立て、6年連続ナンバー1の座につき、ビッグ・マッチ・プレーヤーという比類なき偉大な地位を確立した。彼は静かなる威厳を備えた男、プレッシャーの下で潔さを示す勇気ある競技者、おそらくテニス史における最も偉大な選手として己を際立たせた。

しかしピート・サンプラスはいま、チャンピオンとしての高揚した日々から、はるか離れたところにいる。彼は2002年に最後の試合をし、尊敬するライバル、アンドレ・アガシを倒して、5回目となるUSオープンの栄冠を獲得した。そして6カ月と少し前に、その同じアーサー・アッシュ・スタジアムコートで公式に引退を発表した。今日、サンプラスが32歳の引退者としてくつろいでいるのは明白であり、彼がまさに正しい時にテニス界を去ったのは確かだ。

「考えうる完璧な終局だった」とサンプラスは語る。「僕は2年間メジャー・タイトルを取れずにきて、若いアメリカ人、アンディ・ロディックを負かし、そして決勝でアンドレを下したんだ。アンドレとの試合では本当にすべてを、燃料の最後の1滴までを必要とした。そこに至るまでの2年間は、とても疲れるものだったからね。

あの試合に勝った後、満足感を感じた。それはキャリアの中で一度も感じた事がないようなものだった。僕は自分にできるすべての事をしてきた。そしてもう何も残っていなかった。それを象徴的なものと見ている。いまでも高揚感のようなものを感じるよ。自分のキャリアを素晴らしいものと感じている」

テニス界の頂点にいた時期を振り返る時、サンプラスは思慮深いが、現在は父親・夫として、ストレスの少ない生活を明らかに楽しんでいる。日常について尋ねられ、彼は答える。「僕は息子(16カ月になったクリスチャン・チャールズ)と一緒に、午前6時か7時には起床する。それから出かけてワークアウトをし、少しゴルフをして、2〜3のビジネスをこなす。(彼は『テニス』誌と『テニスチャネル』の持ち株共同経営者である。また、これから何カ月間か自叙伝に取り組むのを楽しみにしている)

週に2回くらい、夜に自宅で友人たちとバスケットボールをする。何回かゴルフ大会に出て、そしてビバリーヒルズの自宅を改築している。そういう事を全部やっていると、かなり忙しいよ。テニスに代わるもの、センターコートに出ていく高揚感に代わるものはないと分かっている。2年後、あるいは10年後にでも、『僕がお返しをする事で、何かできるか考えてみよう』と言う日が来るだろう。いまは目と耳をオープンにしている」

彼はテレビではほんの少ししかテニスを見ず、距離をおいてテニスを見守っている。しかし、サンプラスは語る。「フェデラーとサフィンのオーストラリアン・オープン決勝を少しばかり見た。フェデラーは明らかに、現在ベストのプレーヤーだ。彼は自分のゲームを新しいレベルに引き上げ、倒すべき男としてのオーラを発揮し始めてきている。ロジャーはすべてを備えている。

僕がそうだったように、彼も時にはうまくい行かない日があるかもしれない。彼はショットメーカーだからね。しかしもし悪いショットを打っても、ただ前進あるのみだ。彼は高揚しすぎたり、落ち込みすぎたりしない。何回もメジャー大会で優勝するだろう。オーストラリアでの彼のプレーぶりでは、相手はバックコートから彼を打ち負かす事ができなかった。それに彼は素晴らしいサーブを持っていて、ネットにつく事もできる。だから他の選手たちは本当に大変だと思う」

復活したサフィンについては、サンプラスは断言する。「彼が(2000年に)オープンで優勝した時、僕に対して見せたプレーぶりなら、サフィンがゲームを支配していくだろうと思った。彼は偉大な選手になれる要素を持っている。いまはその途上にあるのだろう。サフィン対ロディックは五分五分の好敵手だ。アンドレはいまも大した強敵だ、特にメジャー大会では。彼はまだ大きいタイトルを勝ち取れる、彼のキャリアには何らかの運命が残されていると信じているよ。だがフェデラーは卓越している」

サンプラスはアメリカの新世代 --- ロディック、マーディ・フィッシュ、ジェームズ・ブレイク、ロビー・ギネプリ、テイラー・デント、そして仲間 --- は、これから何年も存在を知らしめていくだろうと信じている。しかし彼自身とアガシ、ジム・クーリエの業績に匹敵するところまで行くかどうかは危ぶんでいる。「僕がアンドレやジムといたグループは、かなりユニークだった。僕らがした事をアンディ、マーディ、ジェームズ、そして他のみんなが繰り返せるかどうかは分からない。だが彼らは順調にやるだろう。

ロディックは望む限り、世界の3位、5位以内に長くいられる。彼はそういうゲームを持っているし、ほとんどの試合でいいプレーをする。いくつものメジャー大会で優勝するだろう。彼はコートの内外でなにがしかのプレッシャーを経験するだろうが、それをうまくコントロールできる」

コート上の事から、それを越えたところの話に注意を向けてもらうと、彼は同じ明快さと率直さで話をする。男子テニス界における、現在のドラッグテスト問題について語る。「テニスは世界でおそらく最もクリーンなスポーツだ。99.9パーセントの選手はクリーンだと思う。僕はクリーンだったし、対戦した人たちもクリーンだと考えていた。一度、僕の尿からモルヒネの陽性反応が検出された事があった。明らかにバカげた事だったけどね。僕がケシかゴマの実入りのパンを食べていたからだったんだ。そういう事は起こりえる。だが僕はビタミン剤を飲む時には、ドラッグテストをする人のところに直接行って、何も問題がないかどうか尋ねたものだった。何か摂取するものについては、100パーセント問題がないとハッキリさせていた」

才能を見きわめる優れた鑑定家として、そして自分の最大の目標を理解し、それをも超えたチャンピオンとして、サンプラスは彼の輝かしいキャリアについて深く考える時を持ってきた。ある権威筋たちは、1993年から97年 --- その間、彼は14のうち9個のグランドスラム・タイトルを獲得し、年に2回メジャーで優勝しなかったのは一度だけだった --- に、サンプラスは最高のプレーをしていたと指摘するだろう。またある者たちは、ウインブルドン決勝でアガシを下した珠玉の試合を含め、4大会連続優勝を果たした1999年が、彼の絶頂であったと言うだろう。しかしサンプラスは独自の見解を持っている。

彼は言明する。「正直に言って、僕がプレーしたベストのテニスは、もっと年齢が上の時だったと思っている。その時まで、かつてのように一貫していいプレーをしてはいなかった。だが2002年のオープン決勝(彼は6-3、6-4、5-7、6-4で勝利した)でアガシを下したのは、1試合としては僕の最高レベルのプレーだった。特に最初の2セットは。あの試合を見て、次に僕が1995年のオープンでアンドレと対戦した決勝を見れば、95年のテニスは同じほど優れてはいなかったと分かる。

2002年の決勝では、僕のバックハンド・リターンは素晴らしいと感じたし、95年のようにチップショットで返すだけでなく、それを武器として用いていた。2002年USオープンのピートは1995年のピートを射止めただろう。1試合としての僕のベストのテニスは、僕が世界のナンバー1で、あちこちでメジャー優勝していた時ではなく、31歳の時だった。僕が本当に支配していた頃より、年齢を重ねるにつれて、10倍は良い選手になっていた」

最後に最も見事なテニスをしたとサンプラスが信じる主な理由は、大いに進歩したセカンドサーブと、著しく良くなったボレーにあった。1997年までは、セカンドサーブの後にしばしばステイバックした。その後、彼は容赦なくネットに出るようになった。サンプラスは説明する。「キャリア最後の4年間、僕はセカンドサーブで、より頻繁にサーブ&ボレーをし始めた。そしてそれを武器と呼べるものとして使い始めた。セカンドサーブを、少しスピンをかけて、ファーストと同じくらいハードに打った。

多少のダブルフォールトの危険を冒しても、より強烈なセカンドサーブで攻めるだけの価値があった。セカンドサーブでよりサーブ&ボレー をするにつれ、僕はより有能なボレーヤーになっていった。僕のファーストとセカンドサーブのコンビネーションは、おそらく史上最高の部類だろう。僕がそういう事を言うのは、かなりの事だ。常に謙虚であろうとしているから。パンチョ・ゴンザレス、ルー・ホードや他の人たちは素晴らしいサーブを持っていた。でも僕の時代では、僕はおそらくベストのサーブを持っていたと思う」

サーブがとても見事だったため、比類なきランニング・フォアハンドや、非の打ちどころのないオーバーヘッドを含め、広範囲で全般的な才能を、むしろ不明瞭にするほどだった。しかし一流のライバルたちを抑えて、サンプラスをそれほど多くの高名な勝利に導いたものは、彼の精神、重大な局面を乗り切る非凡な能力だった。アガシは彼の最大のライバルであった。2人の驚異的なアメリカ人は、1989年から2002年までの間に34回激突し、サンプラスが対決の20回を制した。他の場所で30試合を分け合ったが、サンプラスは(2002年の決勝を含めて)USオープンではアガシに対して4勝0敗だった。

「素晴らしいライバル関係だった。2人のヘビー級選手がせめぎ合ったんだ」とサンプラスは振り返る。「だが僕は、ウインブルドンやUSオープンなど大試合であるほど、より自信を感じた。自分を信じていた。大舞台にいる事が心地よかった。アンドレが同じように感じていなかったと言ってるんじゃないよ。僕はそれが好きだったんだ。アンドレについては、彼がボールを打つペースや、コート上で立つ位置が好きだった。厳しいポイントを勝ち取るのに、僕は自分の運動能力を用いた。彼と試合をする時には、いつもよりリラックスしていた。彼をとても尊敬していたので、自分が何をしているかについて、考えすぎたりしなかった。プレーするだけだった」

懐かしいライバルのリストで次に言及する男は、ほかでもないボリス・ベッカーである。サンプラスはその逞しいドイツ人を限りなく尊敬していた。ベッカーは堂々としたビッグ・ヒッティング・テニスで、恐るべきチャレンジを提供した。サンプラスによれば、「ボリスにはすごいパワーがあった。僕は彼のサーブと、素晴らしいショットを打つ能力に、いささか翻弄されていた。ハノーバーでの僕たちの決勝(1996年)は、僕が5セットで勝利するというエピック・マッチだった。あの試合で彼とコートに出ていった時の事は、決して忘れないよ。

試合前にロッカールームで待っていると、観客がシュプレヒコールし、手を叩いているのが聞こえた。それからボリスと僕はコートに出ていった。明るいライトが当たり、一瞬、いわば不意を打たれた。『うわーっ、この場にいられるなんて、かなりイカス』と思ったよ。観客はボリスの勝利を願っていても、僕がその試合のもう一方である事に、同じく謝意を表してくれた。雰囲気という点で、あの試合は疑いなく、これまでで最高だった」

元ダブルスパートナーのジム・クーリエと過ごした時期を、サンプラスは甘やかに思い出す。20回の戦いで16勝と、サンプラスが圧倒したが、彼らは何年もの間、あらゆる大試合で勇敢に戦った。そして2度(1995年オーストラリアン・オープンと1996年フレンチ・オープンの準々決勝)、崇高な勝利を記す前に、サンプラスは2セットダウンから挽回しなければならなかった。

サンプラスは思い出す。「僕のテニスのさまざまな面で、ジムは本当に激しくプッシュしてくれた。プロに転向した頃、僕らは一緒に多くの時間を過ごし、ボロテリー・アカデミーでトレーニングした。この男は純然たる働き者だった。1日に3時間練習して、その上ランニング、リフティング、すべてをしていた。僕はそれを見、彼と一緒にやって、優れた肉体になっていった。それから彼はナンバー1に達して、2度ずつフレンチとオーストラリアンで優勝した。トップに到達するという事に対し、いわば僕の目を開かせてくれた。彼にできるなら、僕にもできるだろうと考えたんだ。同じ事がロディック、フィッシュ、ブレイクや他の若いアメリカ人選手たちにも起きるよう願っているよ」

サンプラスはライバル関係を大切にした。しかし彼にとっては、メジャー大会で成功する事ほど重要なものはなかった。グランドスラム決勝における14勝4敗という記録は、大舞台での彼の卓越性の、反駁できない証左である。「説明なんてできないよ」ウインブルドンにおける勝利の7年について、彼は語る。

「ウインブルドンとUSオープンで優勝するために生まれてきたように、ただ感じていた。僕にとっては最大の大会だった。ウインブルドンで起きた事は、魔法の力によるもののようだった。そんな場所は他のどこにもない。僕はスラム決勝での成績、特にウインブルドン決勝で一度も負けなかったのを誇りに思っている。それは世界最大の試合だ。そして7戦7勝というのは、素晴らしい心持ちだ」

一方、サンプラスは遅いレッドクレーのローラン・ギャロスを制するためのフォーム、あるいは確信を見いだす事はなかった。彼はフレンチ・オープンでは決勝に達しなかった。そして最後の6回の出場では3回戦を越えなかった。しかし1992年から1996年の間には、イタリアン・オープン・タイトルを獲得した。そして4連続グランドスラム大会優勝を目指したが、フレンチ・オープン準々決勝でクーリエに屈した。

その期間、特に1994年、彼は自分を低く評価していたのだろうか?「それには何らかの真実がある」と彼は答える。「準々決勝、そしてある年(1996年)には準決勝に達していた頃、僕がクレーで充分やれると完全に信じていたかどうかは分からない。終わりには、疑いが忍び入ってきた。そして自分にガッカリしていたものだった。残念ではあるが、そういう成り行きだったという事だ」

サンプラスにとってもう1つの不幸は、合衆国をより多くのデビスカップ優勝に導けなかった事だ。彼は2つの優勝チームでプレーした。1992年には対スイスの決勝でジョン・マッケンローと組み、ダブルスで勝利した。そして1995年にはモスクワでロシアに対し、ほとんど独力でアメリカを優勝に推し進めた。そこで彼はシングルスで2勝し、間にはトッド・マーチンと組んでダブルスに勝利したのだ。

「僕はそれを、自分の業績の中でも高いところに置いている」とサンプラスは言う。「僕にとっての頂点は、ロシアで1年の終わりに室内クレーでプレーした事だ。得意にしてなかったサーフェスでね。あれは僕のデビスカップ・ハイライトだった。ナンバー1だった事やメジャーで優勝した事と同じ高みにある。ベストの奮闘の1つだった」

彼は異なる8年間、合衆国の代表を務めた。しかし大会とデビスカップの世界にまたがるスケジュールが、何年にもわたりそれほど過密でなかったら、サンプラスは確実にもっと出場しただろう。「95年のロシアでの決勝の後、3週間後にはオーストラリアン・オープンのために、オーストラリアへ行かなければならなかった。シーズンオフがなくて、グランドスラム大会の直後、もしくは直前にデビスカップ・タイがあるというのは、まさに消耗する。ナンバー1の座を守り、メジャーで優勝し、なおかつデビスカップでプレーするというのは、おおかた不可能だ。頭がおかしくなっちゃうよ。心と身体にとり、あまりに多くのテニスとストレスだ。

僕は何年もデビスカップでプレーした。だから自分が責任を果たさなかったとは感じていない。だが、もしもっとデビスカップでプレーしていたら、これほどメジャー大会で成果を挙げたりナンバー1でいる事はできなかっただろう。僕はそれを全部やろうと、自分を懲らしめているようだった。それで若干のデビスカップを断念し、批判を甘受した。ゲームの頂点にいる事は、僕にはとても意味があったからだ」

それはサンプラスにとり、推進力だった。1993年にひとたび世界1位に達すると、彼はその地位を手放す事を拒否し、6年間連続でその座を守った。その記録は破られそうもない。そのレベルでの成功には、極度の専念を必要とした。「ポール・アナコーン、ティム・ガリクソンといった、素晴らしい人々が僕に手を貸してくれた」とサンプラスは言う。「だが、僕がどれほど本当にベストでありたいと望んでいるのか、自分自身で理解しなければならなかった。

1つの敗戦がすべてを変えた。92年USオープン決勝でエドバーグに負けた事だ。いささか、自分が試合を放棄したような気分だった。そして二度とそんな事はしないと自分に約束したんだ。その後、ベストでありたいという感情に駆られた。僕が14回メジャーで優勝できたのは、あの試合ゆえだったと思っている。

テニスでも、ビジネスでも、そして人生全般でも、自分の目標に到達するかどうかは本人しだいだ。ジミー・コナーズとイワン・レンドルも、同じく長い間ナンバー1だったが、僕たちは同じタイプの人間だと考えている。我々はナンバー1である事を望んだだけでなく、トップである必要性を感じていた。コナーズにはあの激しさがあり、そして、なんと、レンドルは1位の座を失った時、怒りを感じたんだよ」

頂点に立つという強迫観念は、サンプラスはテニスを売り込むために、望むほどにはコート外で多くの活動ができない事を意味した。彼はそれについて、後悔の念を引きずっているのだろうか? 「それはいわば八方ふさがりの状況だ」と彼は答える。「もし僕がそれほど勝つ事に取りつかれていなかったら、公の場に姿を見せたり、あちこちのショーに出演したり、マーケティングのためにもっと多くの事ができただろう。でもそれを後悔とは言わないだろう。僕はトークショーに出るよりもずっと、6年間世界でベストのプレーヤーでありたかったのだから。もう少し多くの事ができたかもしれない。だが、やはり、僕が気にかけていたのは試合に勝つ事で、それがトップであり続ける唯一の方法だ。それを後悔とは呼ばないだろうが、考えた事はある」

その他にしばしば考えてきたのは、テニス史における彼の位置についてである。彼は男子のメジャー・シングルス・タイトルの記録を持つだけでなく、長きにわたり見事に才能を発揮した。12年の時をおいて最初と最後のグランドスラム大会タイトルを獲得し、その偉業でオープン時代の記録を達成した。彼は異なった10年、メジャーの栄冠を勝ち取った。それは他の男子が誰も成し得ていない事である。

キャリアの終わりから13年の間、ウインブルドンかUSオープンの決勝に進出できなかったのは、1回だけであった。ウインブルドンとUSオープンの合計優勝回数12回は、男子テニス界におけるもう1つの刻印である。見識ある多くの批評家は、彼をテニス史上ベストの選手と見なしている。

その話題について話すよう乞われ、サンプラスは謙虚に答える。「自分がこれまでで最も偉大であるとは言わない。時に、僕は完璧なテニスをしているとは感じた。だが僕の捉え方では、これは3人の男が傍観し、テニスについて話をしている図ではないかと思っている。1人の男は『私はレーバーの全盛期を見たが、彼はベストだった』と言う。次の男は『私はルー・ホードを見たが、彼は最も偉大だった』と言う。そして最後の男は『なるほど、私はサンプラスを見たが、彼は私がいままで見てきた中でベストだった』と言う。僕はその会話の中に入れられているだけでいいよ」