タイムズ・オンライン(イギリス)
2005年3月19日
終わりだ。何も残ってないし、証明すべきものもない
文:Neil Harman


ほぼ2年が過ぎて、ピート・サンプラスは沈黙を破り、
引退すべきだと知った時について語る


彼はゴルフカートから飛び降りる。服装はジーンズとトレーナー --- カントリークラブの服装規定は、イギリスほど厳しくなさそうだ 。そしてまず気づくのは、ピート・サンプラスは全くもって満足しているという事だ。そして彼が、詮索するのが仕事である者と1時間過ごすのを、楽しく感じているという事。ああ、なんと彼は変わったか。33歳の彼は引退生活に満足している。もうじき2番目の子供が生まれるし、住宅ローンに悩む必要もないのだ。

史上最高であろうチャンピオンに別れを告げてから19カ月が過ぎた。それ以来、彼はほとんど何も語らなかった。あれほど威厳に満ちたプレーをしていた頃も、彼は必要最低限しか人前に出なかった。だからニューヨークの肌寒い夜以降、姿を見せなくなったのは、大した驚きでもない。

あの夜、すべての終わりを迎え、背を丸めて目をうるませるサンプラスのイメージは、今でも鮮烈に焼き付いている。ハワード・ヒューズ的なペルソナは、彼によく似合う。

我々は今、カリフォルニア州パームデザートの、ビッグホーン・ゴルフクラブにいる。主要大会の1つ、パシフィック・ライフ・オープンが開催されているインディアン・ウェルズの隣町だ。だがサンプラスは、覗きに行こうともしない。少しは興味をそそられないのだろうか?

「いいや、大して」と彼は言った。「次にあなた方の前に顔を出すのは、ウインブルドンだろう。そうでありたい、そうあるべきだと思っている。辞めた翌年(訳注:2004年)、ティム・フィリップス(オール・イングランド・クラブ会長)が招待してくれたが、まだ早すぎた。息子、もしくは息子たちがもっと大きくなってから行きたい。彼らと一緒にロイヤル・ボックスに座って、ただ観戦したいと思っているよ」

「長い間テニスは生活のすべてで、完全に僕を支配していた。タフなスポーツで、自分の本当の資質があらわになる。そこが好きだった。だが最後には、記録である14番目のグランドスラム・タイトルを勝ち取るために、僕はずっと張りつめた状態で、それを成し終えた時、ようやく再び息がつけたんだ。2002年USオープン決勝の第4セットは、アンドレ(アガシ)に対する最後の一頑張りだった。もしあそこで勝ちきらなかったら、何をしていたかは分からないよ」

サンプラスはあの華々しい夜に引退を宣言しはしなかった。だが彼の内なる何かは、もう充分だと告げていた。彼は大会を棄権し始めた。そして2003年ウインブルドンへの練習に本腰を入れるとして、ビバリーヒルズの自宅へ来てくれるようコーチのポール・アナコーンに電話した時も、おそらく出場しないだろうと心の奥では分かっていた。

「僕は、OK、ウインブルドンだ、準備しようと思っていた。だが3日目には、『ポール、ごまかすのはやめよう。僕は練習したくない。終わりだ。もう何も残っていないし、自分に証明すべきものもない』と言ったんだ。その時、引退するのだと分かった。でもどんな風に?」

「友人は僕がニューヨーク、USオープンに行くべきだと言った。でも僕は、感情がこみ上げるのをさらけ出してしまうんじゃないかと心配だった。アメリカ・テニス協会は、そこで僕のために式典を行いたいと言ってくれ、考えたんだ。ウ〜ム……よし、行こうって。それまで、自分のキャリアを顧みたりはしていなかった。どんな気持ちになるか分からなかった。だが何百回も通ってきた会場へと向かう途中で、不意に襲ってきた。僕のキャリアは終わったんだって」

なんというキャリアか:1990年から2002年までの、7つのウインブルドンを含む14回のグランドスラム優勝。合計64タイトル。2,500万ポンドの獲得賞金。6年連続の世界ナンバー1。そのすべてが上品に控えめな態度で成し遂げられたのだ。もっと多くを知りたいと思わせるキャリアだった。

これがサンプラスの不可思議なところだったからだ。彼は記者会見を気の滅入るものと感じ、広く認められる事は望んだが、大騒ぎは好まなかった。目立たない生活を送ると決めたが、自分の選んだスポーツでは世界最高であろうとした。

そして彼は、最終的に女優と結婚して、ロサンジェルスに住んだ。ひけらかすためではなく、むしろ世間から逃れるために両方をした数少ない1人だ。彼は丘の上のチューダー様式の家に「引きこもって」暮らしている。まさに彼が好むように。

引退セレモニー、感情とのあらがい --- フラッシングメドウの「超現実的な」経験の後、彼はそこにいた。「僕はテニスがいやになり始めていた。すごく自分に影響を与えてきたから」と彼は言う。「(ジミー)コナーズとゴルフをした時、彼は言ってたよ。『辞めると、テニスに関して何もしたくなくなる。読むのも、見るのも、話すのもしたくなくて、できる限り遠ざかっていたくなる』って。同じ事が僕にも起こったんだ」

彼は長いため息をついた後、付け加えた。「もうプレッシャーも、ストレスもなくなった」しかし何かで隙間を埋めなければならなかった。

「たくさんゴルフをしてきたし、妻は妊娠している。だからそれには少しばかり関与したね……」笑い声がビッグホーン・クラブハウスに響く。彼がプレーしていた頃、聞きたいと我々が熱望したものだ。

「ブリジットと僕は自宅を改築しているんだ。時間とお金がかかる。なにがしかテニスをするよう頼まれたが、興味が湧かない。辞める準備なんてないんだ。引退する方法なんて本はないよ。本当に3年近く経ったの?」

「落ち着かない時もあったよ --- 今日は何をするつもりなんだ?って。徐々にうまくいくようになり、妻や子供と多くの時間を過ごし、いい感じだよ。でも僕はいつだって集中し、競争心の強い運動選手だった。テニスでの経験に代わるものはないだろうね。僕はまだ移行期間中なんだ」

「皮肉なのは、テニスが人生の何よりも僕をあらわにしたという事だ。8歳の時から、僕は1つの事しか知らなかった。そして本格的にやるようになったら、人目を避ける場所がなかった。だから僕は自分の家が好きなんだ」

「テニスでは、誰も代わりはいない。僕がどれほど自衛的に控えめでも、むき出しにされる自分に対処しなければならなかった。モスクワ(1995年デビスカップ決勝で、ひどいケイレンを乗り越えて合衆国を勝利に導いた時)、オーストラリア(1995年、コーチのがティム・ガリクソンが死に向かっていると知って泣いた時)、そしてUSオープン(1996年、アレックス・コレチャ戦の最中にコートで吐き、それを仮病と非難された時)で起こった事に」

「僕はこれらを全く制御できなかった。そしてそれは、テニスが僕にもたらした事だ。だが僕はベストでありたかった。そのためには、すべてを捧げる事もいとわなかった」

「最高だったのは --- 両親が初めて来てくれた時(2000年)にウインブルドンで優勝し、喜びを分かち合えた事。2002年のUSオープンでは妻と分かち合えた。彼女はクリスチャンを身ごもっていて、しかも2年にわたって僕のテニスが不調だった責任を負わされていた」

「彼ら(マスコミ)は僕が結婚して怠けていると言ったが、僕はただ疲れていたんだ。最悪だったのはティムの死。それまで人の死には一度も直面した事がなかったから。あれから9年経ったが、今でも彼の事をよく考えるよ。

テニスについては、2002年ウインブルドンで(ジョージ)バストルに負けた事。記者会見に向かう時、泣くかと思った。家に帰ってから実際に泣けてきたよ。とても切なくて、悲しかった。本当に悲しかった。それがテニスプレーヤーとして最悪の時だった」

その試合の間、サンプラスはラケットバッグから1通の手紙を取り出し、繰り返し読んだ。その手紙には、どんな結果であろうと、ブリジットは彼を愛していると書いてあった。彼女は結果などかまわなかったのだ。彼にはこみ上げるものがあった。

サンプラスが女優と結婚したというのは、そぐわない感じがある。「自分にふさわしい女優を見つけなきゃいけないよ」と彼は言う。「もしブリジットが派手なタイプだったら、僕は彼女と付き合わなかったし、結婚もしなかっただろう。だが彼女の家族、生い立ち、人柄を知ったら、僕は完全にうちとけたんだ。もしプレミアからプレミアへと引きずられるようなものだったら、デートは2回と続かなかったよ」

サンプラスは受け入れられたいと望んだが、彼の内向的な気性は世間にアピールしなかった。「なぜ僕がどういう人間かではなく、どういう人間ではないという風に取り上げるのだろうといつも思っていた。マスコミは控えめで静かな男は望まず、僕が何か彼らの仕事を楽にするような事を言ったりしたりするのを望んだ。メディアの主流が僕を正しく認識しなかったと感じるかって? そりゃそうだね」

「2回目から9回目までのグランドスラムでは、際立ってはいないがほどほどの反響を得た。そして9回、10回と記録が近づくにつれて、より多くの人々が賞賛を惜しまないようになっていった。ただ素晴らしいテニスプレーヤーである事以上のものを世間は求めていたが、その中で僕は、ラケットに物を言わせて満足するタイプだったんだ。初めの頃はとても気になったが、そのうち、もちろん無視はしなかったが、ほとんど気にかけなくなっていた」

今日、彼はゴルフを1ラウンドし --- ハンディキャップは6、「とてつもなくエネルギッシュな」2歳のクリスチャンを野原に連れていって2時間遊び回り、それからブリジットとくつろいで夕食を取る予定だ。慌ただしさはなし。面倒もなし。

彼は「テニス・マガジン」と萌芽期の「テニスチャネル」に出資しており、プライベート・ジェット機関連の NetJet 社にも投資するかもしれない(1990年にフィラデルフィアで初の大会優勝をした時、飛行機が落ちて13万ドルの賞金小切手を使えないかもしれないと心配した者にしては、悪くない)。

彼は週に2回、カントリークラブの仲間と Texas Hold 'Em ポーカーをする。ピストルピートからポーカーピートへ。確かに変化である。かなりの。


伝説

*1990年、サンプラスは19歳でUSオープンに優勝し、同大会の最年少優勝者となった。
*ウインブルドン優勝7回(1993年、1994年、1995年、1997年、1998年、1999年、    2000年)。USオープン優勝5回(1990年、1993年、1995年、1996年、2002年)。オーストラリアン・オープン優勝2回(1994年、1997年)。
* ウインブルドン男子シングルス最多優勝(7回)。
* 14回のグランドスラム男子シングルス最多優勝記録保持者。
*シングルス優勝回数64、通算勝利数762勝、獲得賞金総額 43,280,489 ドル。


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