BBCスポーツ
2004年6月26日
ピート・サンプラス・インタビュー
インタビュアー:Rob Bonnet
書き取り:Geraldine Gregory(samprasfanz)他


BBCスポーツ特派員ロブ・ボネットによるピート・サンプラスのインタビューを、逐語的に拾い書きした草稿。
このインタビューは2004年ウインブルドン中にBBCで放送された。


ロブ・ボネット(以下略):いつ引退すべきかを知るのは、トップのスポーツマンにとって、最もむずかしい決断であろうと言われます。あなたにとってもそうでしたか?

ピート:
そうだね、むずかしい決断だし、それが、僕がその決断をするのに約1年をかけた理由だ。2年間タイトルのない期間を過ごし、一昨年のUSオープンに優勝したのは、厳しい山を征服したようだった。そしてオープンの約3カ月後、その高みから降りた時に現実が始まった。次は何なのか? 次の目標は何なのか?と。トレーニングに戻り、オーストラリアに備えようという時期だった。その時が、辞めるべき時なのかもしれない、あるいは次が分からないといった気持ちを抱き始めた時だった。僕は不確かで、進むべき方向がよく分からなかった。

それにはあらゆる感情が作用したに違いありませんね?

ピート: ああ、そうだね!

すべてに対する恐れ。プレーしない事への恐れ。2002年に勝利するまでの2年間は、もちろんあなたにとって困難なものでした。その経験を繰り返すかもしれないという恐れでしたか?

ピート: いや、そういう恐れではなかった。僕はすべてをしてしまったように感じたんだ。成し遂げたかった目標をすべてやり遂げ、もう自分に証明すべきものは何も残ってないように感じた。僕は長い年月、自分を駆り立て、集中し、そこに到達するためにすべき事に精力を傾けてきた。そしてオープンで、満足感を感じるに至った。

それに気づいた時、キャリアにおいて次に何があるのかという問題に直面しているように感じたんだ。そしてオーストラリアンが近づき、ツアーが始まったが、僕は旅をしたくなかった。練習に身を入れたくなかった。それが引退のプロセスの始まりだったのだと思う。

10年以上もの間あなたを駆り立ててきた強い願望 --- その大望を失いつつあると気づくのは、ぞっとするような瞬間でしたか?

ピート: う〜ん。ぞっとするというのとは違う。自分の感情を認めるといったところだ。オーストラリアに行きたいと感じたら良かったのに、練習をしてプレーし続けたいと感じたら良かったのにと思うよ。だが現実には、僕はすべてをやり終えたと感じた。多くの目標を成し遂げたと感じ、初めて本当に満足感を覚えたんだ。

そしてこれらの大会を棄権していったが、ウインブルドンが巡ってきた時に自分がどう感じるかを知りたいと待っていた。心の中では、OK、もう一度ウインブルドンでプレーする、そのために練習し、トレーニングする気になるだろうと思っていた。

あの大会は僕にとって、テニスにとってとても重要なものだ。それだけに、練習やトレーニングを3〜4日間した後、僕は終わったと分かったんだ。それはゾッとしない日だったよ。自分の家のコートで30分くらい練習した後、僕はラケットを置いて、ポールに「僕は終わったと思う」と話したのを覚えている。そしてラケットをバッグにしまった。僕が終わりを知った時だった。

自分は終わったとポール・アナコーンに言った時、あなたのコーチは --- 彼は、あなたを説得しようとしなかったのですか?

ピート: いいや、説得は何もなかった。

誰もあなたを思いとどまらせようとしなかったのですか?

ピート: しなかった。

あなたの家族も話し合いの場にいたのですか?

ピート: 妻も、コーチも、みんな僕にプレーしてほしいと思っていたが、それはただ、彼らは僕のプレーを見るのが好きだったからだ。ただそれが続いてほしいと願っていた。だが彼らは僕の決断を理解してくれている。

ウェイン・グレツキーに話をしたのを覚えている。彼は偉大なホッケー・プレーヤーで、僕は彼の考えを聞きたかったんだ。彼は、決定する事のできる唯一の人間は君だと言った。そして、他の人たちからアドバイスを得られるものではないと、いわば僕を励ましてくれた。それは僕が自分の人生について、そうありたいと考える姿勢だ。そういう事だった。

2003年には、ピストル・ピーターは徐々に消えていっている( petering out )という感触がありました。振り返ってみて、もっとハッキリした辞め方、決断をしていたら、と考えませんか?

ピート: それは、う〜ん、ないね。つまり、(あの時点では)僕は分からなかったんだ。引退は、ある日目覚めて「僕は引退だ」と言うようなものではない。何かをとても長い間してくると、辞める決断をするには時間が必要だし、その過程をたどりたいと望む。どんなスポーツマンも、それぞれのキャリアを持つどんな人も、続けたい、辞めたくないと願うだろう。

誰もにそれぞれの決断があり、僕にとって100パーセント終わったと知るベストの方法は、時間を取る事だった。僕はオープンの直後に引退し、6カ月後にカムバックするような事はしたくなかった。僕は終わったのだと100パーセント確信したかったんだ。

あの年の8月、USオープンのフラッシング・メドウにおける、非常に感情的なセレモニーに参加すると決めさせたものは何ですか。最初の月曜日でしたね?

ピート: そうだね。

あれはショービジネスとでも呼ぶもので、ある意味では非常に非ピート・サンプラス的でしたね?

ピート: まあ、僕がオープンを棄権したらアメリカ・テニス協会が連絡してきて、もし僕がオープンの前に引退するのなら、セレモニーを行いたいと申し入れてきたんだ。セレモニーやあの全部の事をするのは、僕には居心地悪いものではあるけれど、ニューヨークに戻ってセレモニーに参加する事は、自分自身に、ファンに、そしてテニスというスポーツに対する義務だ。

あなたはナーバスになりましたか?

ピート: なったよ。つまり……う〜ん、自分の引退を公に発表するのは、かまわなかった。というのは……

それは公然の秘密とでもいうものでした。しかし一種の公共性がありました。

ピート: 公共性、そしてそれを公式にし、実際にメディアの前で引退について話す事。そしていわばキャリアを振り返り、ニューヨークに、会場に戻り、本当にとても多くの思い出がよみがえった。不気味で恐ろしいような日だった。決して忘れないだろう。

それでは、フラッシング・メドウに向けてドライブしながら、涙が湧き出てくるような感じだったのですね。

ピート: その通りだ。思ったより大変そうだと分かったよ。そして、僕は確かに多くの思いを内に秘め、ある時にはコート上で感情を露にもしたが、う〜ん、それはただもう不気味な、恐ろしい日だった。それは --- 僕は本当に辞めたんだ、戻ってこないんだという事だった。本当にプレーを終えたのだという事を何よりも考えさせられた。

そしていま、あなたはここに座り、とてもリラックスし、とても幸せそうです。明らかに何の後悔もない。おそらく自由を感じているからですか?

ピート:
そうだね、つまり僕は何カ月も、プレーするか、引退するか、ずっと考えてきた。そして実際に引退を公にし、2〜3カ月後には、鳥のように本当に自由だと感じている。僕はゴルフをしたり、息子や妻と過ごしたり、あちこちに小旅行をしたりしてきた。そしてテニスが恋しくならないんだ。

テニスラケットはどこにあるのですか。鍵をかけてしまい込まれたのですか、人にあげてしまったのですか?

ピート: う〜ん、保管してあるよ。

保管されている。

ピート: 保管されている。ある時点で再びラケットを取り出すだろう。しばらくは触っていない。

最後にテニスボールを打ったのはいつですか?

ピート: ええと、ウインブルドンが始まる2〜3カ月前に練習を始めた時だね。

2003年の4月ですか?

ピート: それが、僕が最後にラケットを握った時だ。

OK。それでは、あなたのキャリアにおける1〜2の重要な時について再考しますが、このインタビューの準備にあたり、私の目を引きつけた言葉で始めましょう。フレッド・ペリーは戦前の1930年代に*2度優勝して以来の、イギリス最後の男子チャンピオンですが、彼はかつてこう言いました。「サンプラスはオイルのように動く。彼の音を聞く事はない。もう一方の男の音を聞くだけだ。そしてもう一方の男は負けているのだ」と。あなたのプレーぶりについての興味深い、そして説得力あるイメージではないかと思います。ナンセンスもなし、大騒ぎもなし。ひたすらもの静かで、非情なまでの有能さ。
訳注:フレッド・ペリーはウインブルドンで3回優勝している。

ピート: ええ、つまりそれが僕のプレーのやり方だった。僕はうなり声を上げたり、しょっちゅうダイビングをしたりする選手ではなかった。かなり有能だっただけだ。僕は動きが良かったと思うし、動きは大きな強みの1つで、比較的楽にプレーしているように感じさせた。そして歩く時に足音を立てなかったと思う。常にネコ科の動物が襲いかかろうとしているようだった。

フレッドが語っているのは、僕のサーブのパワー、動き、すべてのショットについてだろう。彼が何を語っているのか分かるよ。僕はかなりスムースだった。そして相手を粉砕するようなタイプのプレーヤーだった。時に、誰にも止められないと自分でも感じる事があった。すべてが噛み合い、サーブも好調の時には、プレーを支配しているように感じたよ。

しかし問題は、それが広く一般に受け入れられるプレースタイルではなかったという事でしたね? 「B」の単語について触れましょう。ある者たちはそれを退屈( boring )だと感じました。彼らは間違った解釈をしていたと思いますか? そういった批判に憤慨しますか?

ピート: まあ、 初期の頃、21〜22歳頃は当惑したよ。それはおそらく僕がゲームにもたらしたものなのだろう。僕はコート上であれこれ喋ったりしなかった。つまり、マックやコナーズから僕のようなタイプへの移行だ。僕のようなとても内省的な人間から見れば、彼らはあけすけに物を言う男たちだった。つまり僕を退屈だと語るのは簡単だった。当時を振り返っても、う〜ん、理解できない感じだね。

さて、あなたの言葉がここにあります。「僕は偉大な男、あるいは派手な男、面白い男になりたいとは一度も望まなかった。僕はタイトルを勝ち取る男になりたかったんだ」そして全くもって、あなたはそうなりました。14のグランドスラム・タイトル。また、286週間ナンバー1の座につきました。あなたをそこまで駆り立てたものは何ですか?

ピート: そうだね、う〜ん、USオープン決勝でエドバーグに敗れた時だね。その時点まで、僕は自分が何を望んでいるのか確かではなかった。世界6位とか頂点に近いだけでも幸せだった。だがあの敗戦が僕のキャリアを変えたのだと思う。負ける事を憎むまでに。大して望まない状態から、自分が望んでいるものをハッキリと自覚するようになった。

あの敗戦は僕のキャリア全体を変えたんだ。自分が望んでいるものを100パーセント知ったように感じた。あの試合では、僕はいわば少しばかり諦めてしまったようだった。降参してしまった感じだった。そしてあの試合が僕のキャリアを変えた。それが、14回メジャーで優勝でき、ナンバー1でいられた理由だ。

苦しい経験でしたか?

ピート:
ストレスと言えるだろうね。胃潰瘍ができた。そう、ストレス、炎症止めを服用する、胃がよじれる、よく眠れない、そして自分のプレーについて気をもむ。何度もウインブルドンの決勝でプレーする。外見的には僕はとても冷静に見えたが、内側ではナーバスになっていた。タイトルを獲得する事、これは僕たちが目指しているもので、そのために僕は自分の人生をいわば作り上げてきたんだ。

そしてナンバー1であり、そこに留まる事は、間違いなく感情的に消耗するものだった。それが一昨年31歳でオープンに優勝した時、ロウソクを燃やし尽くしたように感じた理由だろう。僕には何も残っていなかった。ナンバー1でい続けるというのは、僕がしなければならなかった最も大変な事だ。

1996年USオープン準々決勝アレックス・コレチャ戦で、それは際立っていましたね。ウインブルドン最後の優勝であるパトリック・ラフター戦、そしてもちろん、あなたのプロキャリア最後の試合となった2002年フラッシング・メドウでの決勝アガシ戦もそうでした。

ピート: そうだね。

まず初めに、コレチャ戦について語ってもらえますか。あの試合を通してあなたを駆り立てていたに違いないのは、すさまじいまでの勝とうとする意志の力でした。

ピート: その通りだった。コートに出て行く時点で、僕は少しばかりエネルギーが不足していて、前の試合が少し長引いた事もあって食事もちゃんとしていなかった。第4セットまでには脚の疲れを感じ、第5セットではただ頑張るのみだった。

タフマッチだった。つまり、彼はいいプレーをし、僕に厳しい仕事を課した。そして第5セット・タイブレークで、う〜ん、僕は具合が悪くなった。ただもう限界だった。そして吐いたんだ。僕の身体は痛めつけられ、胃は悲鳴を上げていた。唯一あの時に考えられたのは、タイブレークで良かった、あと数分で終わりになるという事だったよ。

もしウインブルドンのようにタイブレークのない試合だったら、僕は勝利しなかっただろう。だがタイブレークは助けとなった。2回サーブを打つか、あるいはウィナーを狙って踏みとどまるかだ。あの試合は、テニスコート上で肉体的に最悪とも言えるようなひどい気分になったものだったと思うよ。

それを隠しようもありませんでした。

ピート: そうだ。そして、その場の観客たちが、僕を心から声援してくれていたのを覚えている。彼らは僕が肉体的に苦しんでいるのを知っていた。あの試合では観客の声援が本当に素晴らしい部分だと感じたよ。それからなんとかその試合に勝ち、大会で優勝したんだ。

2000年に時を進め、ウインブルドン決勝ラフター戦について話しましょう。もちろん、7〜8年の間あなたはウインブルドンにおける本命でした。にもかかわらず、パット・ラフター、人々は彼を応援していました。彼は一度もウインブルドンで優勝した事がなく、とても人気がありました。ナイスガイと言われていました。あなたのウインブルドンにおける、最も人気の高い勝利ではなかったかもしれませんが、もちろん、あなたのご両親がグランドスラム決勝戦で初めて観客の中にいました。あなたが優勝するのを両親が見た、初めてのグランドスラムだったのですね?

ピート: うん、そうだ。ウインブルドンに来るよう、いつも招いていたが、両親はいつも、家で応援していればいいからと辞退していたんだ。姉と妹が彼らを飛行機に乗らせてくれたんだと思う。そして両親は来てくれた。あの試合を振り返ると、僕は第1セットを失い、第2セットのタイブレークも1-4のビハインドで、うまく行ってないと感じていた。だが第2セットを取り、そして最終的には試合にも勝ったんだ。

厳しい2週間だった。僕は故障を抱えていて、痛み止めの注射を打たなければならなかった。グランドスラム記録を破るチャンスでもあったし、両親もいた。いろいろな感情にとらわれ、ただただ厳しい、ストレスに満ちた2週間だった。脚のせいで試合と試合の間に練習もできなかった。そして僕はそれを乗り越えた。それは勝とうとする意志の力だった。僕が抱えていたような痛みでは、多くの選手はプレーをやめていただろう。

それから、フェデラーという名の男が現われたのですね?

ピート: フェデラー戦では、少なくとも僕はいいプレーをした。バストル戦は、試合後は本当に泣きたいような気持ちだった。あれはテニスプレーヤーとして、これまでで最も大きいどん底の1つだった。フェデラー戦は受け入れる事ができる。彼はとてもいいプレーをしたからね。彼は素晴らしい選手だ。

しかしバストルへの敗戦は、墓場と呼ばれる2番コートでしたね。

ピート: いずれにしても、僕はあそこに配されるべきじゃなかった。

ああ、OK。

ピート: 7回優勝したチャンピオンとしては、1番コートかスタジアムコートであるべきだったんじゃないかい? 雰囲気が違うんだ。もしアラン・ミルズがこれを見ているなら、「次に会う時には、あなたの尻を蹴っ飛ばすつもりだ!」(両者とも笑う)

もし彼が見ていないなら、私が伝えましょう!

しかしあの時点では、再びウインブルドンで勝つ事はないかもしれないと、疑いを抱いたのではないですか。

ピート: バストル戦の後?

ええ。

ピート:
いいや。つまり僕はガックリしたし落胆した。あの年はずっと落ち込んでいたけど。

はい。

ピート: だが僕は常に、また勝てるように感じていた。それがプレーし続けた理由だ。そして僕自身に課していたチャレンジは、もう一度メジャーで優勝する事だった。

それをあなたは成し遂げました。2カ月後にフラッシング・メドウのアンドレ・アガシ戦で。途方もない偉業でした。あなたが言ったように、それまでの18カ月間の経過の後でしたからね。

ピート: 僕には何よりも意味があった。いいプレーをしていて、物事がうまく行っている時に勝つのは簡単だ。だがあれほど落ち込んでいた時に、精神的にも身体的にも奮い立って勝利を手にするのは、いろいろな意味で格別な甘やかさだった。多くの人々を黙らせた事。自分自身に証明した事。当時妊娠していた妻と、勝利を分かち合った事。つまり、素晴らしい出来事だった。

では、1995年のオーストラリア・オープン準々決勝について振り返ってみましょう。あの試合は、当時のコーチだったティム・ガリクソンが脳腫瘍と診断された知らせを聞いた直後でした。ジム・クーリエに対して2セットダウンとなり、それからあなたは(コーチのために頑張れという)観客からの叫び声を聞きました。

ピート: まあ、いわばメディアが、僕が叫び声を聞いたとしたんだ。僕は聞こえなかった。彼が倒れたのは3回目で、脳腫瘍があるという噂を耳にした。あの時は誰も僕に話さなかったが、僕はそういう話を耳にした。そして僕はその場にいて、ティムとトムがとても感情的になっているのを目にした。彼らは病室で何時間も泣いていた。僕は強くあろう、彼らを支えよう、そしてプレーをやりこなそうと努めていたんだ。

そして僕がジムと対戦する日、彼はアメリカへ帰った。最初の2セットを失って、カムバックし、一生懸命戦うよう自分に言い聞かせる事を思い出した。それはティムが僕に教え込んだ事だった。そして次の2セットを勝ち取った後、それが僕の胸を打ったんだと思う。OK、ただもう感情的に完全に崩れたんだ。ティムの姿が目に浮かび、これから彼に何が起こるのか分からない不安や、自分の中にしまい込んでいた感情が、すべて溢れ出してきたようだった。

あの事が示したのは、ピート・サンプラスという人物の一般的なイメージは、いわば抑制のきいた人間というものでしたが、実際はその下にとても感情的な人間性があるという事でした。

ピート: 興味深い事だが、あのエピソードの余波は、う〜む、ピートもやはり人間的だったという人々のコメントが多く引き出された事だった。それに少しばかり怒りを感じた。僕が人間的であると示すために、あそこでヒステリックに泣く必要なんてなかった。僕はそもそも感情を持っている。それをたまたま違ったやり方で示しているだけだ。

この地球上の誰もが、少しずつ異なっている。僕はたまたま感情をどちらかと言えば抑えて、自分のテニスをするんだ。そして僕もやはり人間的であるという言い方は、本当に煩わしかった。僕が感情を持っていると示すために、泣いたりする必要はないという事だった。感情は常にあったんだ。

まあ、あれは非常に粗野な捉え方でしたね。しかし思うに、あなたはコート上でとても抑制がきいていると、人々はただ感じていたのでしょう。冷徹、でしょうか? 多分その言葉ではないですね。つまり……

ピート: いいや。僕はとてもきちんと、自分の感情をコントロールしていただけだ。人や審判と口論してエネルギーを浪費したりしなかった。対戦相手に僕が何をしているか、どう感じているか示すのを好まなかった。それは賢いやり方で、僕はただそんな風だった。

デビスカップでジョン・マッケンローと組んでダブルスをしたのを思い出すが、ジキルとハイドみたいだった。彼はとても感情的で、僕は隣りに座っているだけで消耗した。頼むから1分間だけでも口を閉じてくれって感じだった。彼は10分前のラインコールにも不平を言っていた。僕は言ったよ。ジョン、あなたがここで言っている事を、僕は聞いているだけでヘトヘトだよって。

あんな風に僕のキャリアを送るなんて想像できなかった。あの感情の起伏も。僕が長い間トップにいられ、多くのメジャー大会で優勝できたのは、自分をコントロールしていたからだ。

ええ。あの種のアプローチは彼には合っていました。しかしあなたには合っていなかったのですか?

ピート: そう。僕を消耗させたものだった。コートでの僕のあり方は、テニスは自分の仕事だと考えていた。そして、面白がらせると言うけれど、コートで「面白がらせる」部分には、本当に気分を害した。つまり、僕はバカな真似をしたり、悪態をついたりするためにコートにいるのではない、友だちを作るためにいるのでもないという事だ。

タイガー・ウッズやマイケル・ジョーダンといった競技者を見れば、彼らは真剣だと分かる。そして僕は面白がらせるべきだと言うのは、ジョーダンたちと対戦する時に、彼らに面白い事をしろと命じるようなものだ。つまり、ドラマや娯楽性を求めているのはメディアや専門家たちだという事だ。

ええ。

ピート: だが僕は彼らに屈しなかった。

しかしマッケンローのようなアプローチへの批判もあり、彼は悪い手本だという苦情もありました。一方あなたは実質的には完璧な模範でした。

ピート: そうだね、たくさんの親御さんが僕のところへ来て、自分の子供の素晴らしいお手本ですと言ってくれるよ。自分らしく振る舞ったという事実が好きだ。つまりマッケンローやコナーズと比べられた上で、不作法なガキではない、そして素晴らしいテニスをした、それを自分の子供に示したいと思うような品格をもって行ったという事だからだ。それは僕にとっては、どんな素晴らしい託宣、カバーストーリーや何かよりも大きな意味がある。つまり、僕は肯定的な方法で誰かの人生に影響を与えているのだと感じさせてくれる。

未来はテニスとピート・サンプラスにとって明るいですか?

ピート:
テニス界における僕という事? う〜ん、そうだね。テニスは僕にとってとても良いものだった。何らかの方法でお返しができたらと願っている。いまのところは、それが何なのか100パーセント分かってはいない。テニス界自体はうまく行っていると思うよ。

将来は?

ピート: 僕にとっての将来は、話したように、いままでしてきた事だ。たくさんゴルフをして、何回か小旅行をして、ただ引退生活を楽しむ。う〜ん、1カ月後、あるいは6週間後、5年後に、もう少し忙しい状態を望む時が来るかもしれない。旅行をそれほどためらわなくなり、ウインブルドンへ行ったり、あるいは少しばかり解説をしたり、何らかの方法でテニスにお返しをするかもしれない。

テニスチャンネル、テニスマガジンなど関わっている2〜3のビジネスがある。つまり、僕にはテニスに提供するものがあるように思う。そしてテニスでは知名度があるから、戻るのは易しい。

だがいまのところは、目立たない状態でいる事を楽しんできた。もしかしたらテニスに戻る事はないかもしれない。僕はそれを望まないかもしれない。でもきっといずれ戻ると思うよ。たとえばジョン・マッケンローがしている事を見ると、彼は現役だった頃よりもいまの方が、テニス界により関わっているしね。

まあ、どこへあなたが行くとしても、必ず歓迎されますよ。ピート・サンプラス、我々に加わってくれて、どうもありがとう。



Geraldine Gregoryより
ピートとロブ・ボネットは2人とも早口で、録画ではハッキリしない部分があるため、書き取りにはとても苦労しました。BBCから直接、よりハッキリしたコピーを手に入れたいと考えています。