ザ・ウォーラス(セイウチ:カナダの総合誌)
2007年4月21日(2006年10月号に掲載)
サーブ&ボレー、誰がする?
文:Andrew Clark
写真合成:Frank Weidenfelder


かつてテニス界を席巻したネットラッシュは、今や消えゆく芸術である



巧みな技量でテニスボールを打つ事によって得られる、静穏の境地を記述するのは困難である。重力、幾何学、そして自然界のあらゆる力が協働し、毛羽だった黄色の球はあるべき様で回転する。意図は行動になり、行動は現実になる。それは高揚感である。

ある者にとって、テニスは趣味である。またある者にとっては、それは抑えがたい欲求である。そして心奪われた者にとっては――私もその1人だが、それは仏教のように、愛好者に時と空間を超えて存在の本質を悟らせる宗教である。中でも最も狂信的な者は「サーブ&ボレーヤー」として知られている。ベースラインに留まって悟りを待つのは我慢できず、我々は純粋性を求め、ビッグサーブを打ってネットに突進し、簡単なボレーを願う。多くの場合、成功は辛い修行や善なる業と等しいように思われる。

「一見危険そうだが、自分が何をしているか承知していれば、サーブ&ボレーをする事はギャンブルと正反対なんだ」正午の熱気の下で我々がコートにいる時、プロ選手でカナダのデビスカップチームの元メンバーである27歳のマット・クリンガーは私に話す。「サーブ&ボレーヤーは、自分の手札をすべて見せている。こう言っているんだ。『僕は前へ詰めるから、もし君がずっと僕をパスで抜けるなら、君が勝つだろう。そうでなければ、君は終わりだ』とね」

クリンガーは5カ月間、私のネットゲームに磨きをかけるため協力してくれた。サーブに引き続いてネットに詰める時は、相手プレーヤーに難しいパッシングショットを打たせるよう強いる。目的はボレー――バウンドする前にボールを返すショット――の準備で、そのままウィナーとなるか、あるいは楽な決めのボレーをお膳立てする。単純に聞こえるが、ボレーとは電光石火のごとき機敏さ、一心不乱の集中力、本能的な手と目の協調作用を必要とする、非常に難しい芸当なのである。

テニスは間合いのゲームである。対戦相手から間合いを奪わなければならない。もし上手くいけば、相手はより多くのミスをし、自分はより多くのウィナーを打つ。「サーブ&ボレーヤーと対戦するのは、信じがたいほど難しい事がある」と、本国の男子トップ候補の1人であるピーター・ポランスキーを指導するテニスカナダのコーチ、ディーン・コバーンは言う。

「とにかく彼らは前に出続ける。それは相手をうろたえさせる。もちろん、上手くサーブ&ボレーをするには、精神的に強靱であらねばならない。立ち直りの早さが必要だ。『次』という思考方法、対戦相手はプレッシャーの下でいつか崩れるという信念を持たねばならない」

その戦略は50年代から70年代を通じて、男子テニスの支配的なプレースタイルであった(女子の側では60年代まで完全には受け入れられなかったが)。つい10年前まで、サーブ&ボレーは未だかなり優勢で、男子テニスの平均的ラリーは3ストロークだと言われた。「ピストル」ピート・サンプラスは容赦なく前方へ攻め、プレッシャーをかけて対戦相手の心裡に迫り、彼らの希望を押しつぶして14のグランドスラム・タイトルを獲得した。

だが今日、サーブ&ボレーの技は過去の遺物、対戦相手のバランスを崩すために時たま用いられるトリックとなりかけている。コバーンは言う。「大学テニスでは、多くのトップ選手がサーブ&ボレーを有効だと考えている。しかしプロツアーでは、それをする者は殆どいない」

実際、男子プロテニス選手会(ATP)ツアーのトップ100人で、純粋なサーブ&ボレーヤーはほんのひと握りしかいない。コーチング界もジョン・マッケンロー、ステファン・エドバーグ、パトリック・ラフターのようなサーブ&ボレーの特異な天才を育てる事から遠ざかり、スペインの才人ラファエル・ナダルのごとき圧倒的な有効性と堅実さ、あるいは現在の支配的プレーヤー、好んでベースラインに留まるスイスの右利きロジャー・フェデラーのような多才さを育成する方向にある。

「10年前は遙かに多くのサーブ&ボレーヤーがいた。今は誰も中に入ろうとしない」と、ワールドチームテニス・ツアーで今でも時折プレーするサンプラスは、2006年ウインブルドンの最中、記者へ挑戦的に語った。「僕は一生サーブ&ボレーをし続ける。それは僕本来の天性だ」


サーブ&ボレー・スタイルの滅亡は、テニス界の反響がなかったら、スポーツの物珍しい補足事項として忘れ去られたかも知れない。テニスは近代文化のバロメーターである。社会情勢が煮詰まっていると、テニスはブームになる。流行という点で、共に社会構造の変革期に2度の爆発を経験した。一度目は恐慌期の20年代に起こった。二度目はサマー・オブ・ラブ(愛の夏。1967年夏、特にサンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区に集まったヒッピーの反体制的文化活動を指す)に引き続いて始まり、80年代初期に全盛を極めた。

これらの時代、一流の闘い――20年代後期のチルデン対ボロトラであれ、あるいは1980年のボルグ対マッケンローであれ――では常に、手練手管の堅実なベースライン・プレーヤーと、鮮やかなサーブ&ボレーの名人が競い合った。本質としては、堅固な19世紀の価値観(ベースライン)と、能率化された非感傷的な現代主義(サーブ&ボレー)の対立だった。ネットへ突進する者は、城門に攻め入る野蛮人だった。摩天楼を急造し、バウハウス(1919 年、ドイツのワイマールに設立された建築デザイン学校。その流れをくむ合理主義的・機能主義的な芸術を指す事もある)で夢を見て、そしてパステルの風景画を踏みつけにした。

ドリル練習の最中、クリンガーは私に言う。「サーブ&ボレーヤーの大半は乱暴者だ。彼らは『ゲームは性格を反映せねばならない』と言うかのようだ」

「だが、私は乱暴者ではないよ」

「以前はそうだったんだよ。今、あなたは家族を得て落ち着いた。しかし内部では、未だに頭がおかしいんだ。ネットに出るには、少しクレージーでないと駄目なんだよ。もしクレージーでなかったら、ネットプレーをそれほど好きにはならないよ。ネットに攻め、自分を引き裂いてみろと挑んだりしたがらないだろう」

このいかれた奴、内なる乱暴者の理論が、編集者が私にこの物語を書くよう仕向けたのだ。「話の中に君自身の事を入れてほしい」電話で細部を論じている時、彼は私に言う。

私は論議を歴史に繋げていく。「16世紀にまで遡る事ができる。ネットへ詰める事の美徳を称揚している詩があるんだ」私は16世紀のフランスの詩人、ギョーム・ド・ラ・ペリエールの一節を引用する。「『ボレーよりもバウンドを好む者は、決して優れたプレーヤーとは見なされなかった……』」

「なるほど」と、彼は中断して言う。「いいね、だが私は知りたいんだ。つまり奇妙だ、と君は思わないか……」彼が息をつき、言葉を選んでいるのが聞こえる。「自分がこの超積極的なプレースタイルを好むのは奇妙だ、と君は思わないかい?」

「そうかな」

「まあ、私には不思議に見えるよ。君は必ずしも会話を独占しようとしないよね」

「しないと思う」と、私は彼の論点を認める。

コートでは、私がサーブを打ち、ボール籠の横に立つクリンガーはボールを通過させて、リターンに相当するショットを出す。そして私はそれをボレーして、さらに前へ詰めなければならない。気温は摂氏37度で、汗がしたたり落ちる。まるで動物園の見せ物でもあるかのように、隣りのコートにいるプレーヤー達は私を見る。私はクラブで唯一のサーブ&ボレーヤーなのだ。

彼らが言うには、「ネットに詰める」事は私の天性だった。子供の頃、私はマッケンローとボルグの対戦を見て、それからダンロップ・マックスプライを手に外へ飛び出し、学校の塀に向かってジョニー・マックになった気分でボレーをしたものだった。目指すのは、地面にバウンドさせずに可能な限り何回もボールを打つ事だった。

しかしマッケンローが始祖ではなかった。ジーン・ボロトラ(「躍動するバスク人」)が、初の世界的に名高いサーブ&ボレーヤーだったのだ。彼は20年代後期から30年代初期にテニス界を圧倒した、フランス「四銃士」の1人だった。ボロトラはフランス陸軍に勤務しながらプレーを始め、テニス史家のアーサー・ヴォスによれば「彼はどんな時でも(ネットを)求めた」というスタイルを創出した。

パンチョ・ゴンザレスが後に続いた。彼は南ロサンゼルスのコンクリートコートでプレーして育ったが、ワスプ(米国社会の支配階級を形成するとされる、アングロサクソン系白人新教徒)のテニス主流派に受け入れられる事はなかった。激情家の一匹狼は、怒るといっそう有能になるばかりだった。ゴンザレスのサーブ&ボレーゲームは破壊的で、彼がサーブの後すぐにネットへ詰めるのを阻止するため、短期間、大会組織は規則を変えたほどであった。

オーストラリアの伝説的選手、ロッド「ロケット」レーバーは、バックコートからも 見事だったが、絶え間なく中へ詰め、二度の年間グランドスラム・シングルス・タイトル(ウインブルドン、オーストラリアン、フレンチ、USオープンの4つ)を勝ち取り、テニス史上唯一のダブル・グランドスラマーとなった。レーバーのスタイルはマッケンロー、エドバーグ、ボリス・ベッカー等を代表とする偉大なサーブ&ボレー・プレーヤーの世代に影響を与えた。

しかしながら、70年代中期から技術革新とテニスの大衆化が始まり、サーブ&ボレーの気風がすたれるお膳立てとなった。1976年、スポーツ用品エンジニアのハワード・ヘッド――プリンスの製造業者は、オーバーサイズのメタルラケットを導入した。それは当時の平均的なウッドラケットに比べて、打球面がほぼ65平方センチメートルも大きかった。

当初、プロは「ハエ叩き 」と呼んで嘲笑ったが、クラブプレーヤーはそれを受け入れた。プリンスの売上高は1976年の3百万ドルから、1982年には6千万ドルにまで上昇した。メタルラケットは間もなく、炭素と他の素材でできた、より頑丈で軽い「グラファイト」に取って代わったが、やはりフェース面積は大きかった。これら新しいラケットのスイートスポットは大きくなり、よりパワフルに打つ事を可能にした。その結果、ビッグサーブとキラーフォアハンドといった、1つか2つの主要な武器を持つプレーヤーの集団が登場した。

80年代後期になると、トップスピンをかけて確率重視のテニス(一例として、ネットを越えて低く沈んでくるクロスコートを打つ事)をするために、マイケル・チャンのような選手が大きいラケットを使用した。これは前へ攻撃してくるサーブ&ボレーヤーに対して、ベースライン・プレーヤーがパスで抜く事を容易にした。

同じく、テニスコートも変化した。元来、テニスは屋内の硬い木のフロアでプレーされていた。しかし1873年、テニスをより親しみやすくする試みとして、イギリス陸軍の士官が「芝生テニス」を確立した。同様に、1970年代、テニスが北米でより普及するにつれて、アスファルトとコンクリートでできたハードコートに取って代わり始めた。これは芝生より維持が楽で、安価だった。

プロテニスにこの移行がもたらされた。1974年には、4つのグランドスラム大会のうち3つが芝生でプレーされ、それはサーブ&ボレーヤーに有利であった。今日、ウインブルドンが芝生でプレーされる唯一のメジャー大会である。USオープンとオーストラリアン・オープンはハードコートで、フレンチ・オープンはカタツムリのように遅いレッドクレーでプレーされる。近年、大会組織はコートスピードをさらに遅くし、ビッグサーブのゲームを排除して長いラリーを奨励する試みのため遅いボールを使用している。観客はそれを好むとされているのだ。

サーブ&ボレーの戦術は、目的がただ1つの様式としては残らないが、ゲームの一側面として生き残るであろう、とディーン・コバーンは考えている。フェデラーによって完成されたオールコート・ゲームへ移行すると見ている。「8〜9割の男子は、ロジャーのようにプレーしようとする。その観点は試合を操る事だが、ポイントごとに違ったやり方でそれを可能にする事だ」とコバーンは言う。

換言すれば、実用主義的で融通の利く時代の、実践的で融通の利くアプローチ。今日、プレーヤーの主なタイプは3つある。打ちひしぐタイプ(ナダル)。彼はヘビー・トップスピンで、後方からすべてを叩く。攻撃的ベースライン・プレーヤー(アガシ)。彼はボールをライジングで捕らえ、プレーをコントロールしようとする。そしてオールコート・プレーヤー(フェデラー)。彼はベースラインに留まる事もできるが、時折ネットへ攻撃する事も快適にこなす。

しかしサーブ&ボレー・ゲームの衰退で、何かが失われてきた――正直なところ、多分。純粋なサーブ&ボレーヤーは何も隠そうとしなかった。常に中へ入っていた。プレッシャーを掛けようとしていた。


私はレッスンの後に帰宅し、地下室へ降りてビデオテープの隠し場所を掘り返す。これらは古い試合だ。コナーズ対クリックステイン、アガシ対サンプラス。探していたテープを見つけ出し、ビデオデッキに入れる。それはニューヨークで行われた1998年USオープンにおける、オーストラリアのサーブ&ボレーの権威ラフター対サンプラス戦だ。

ラフターがいる。彼の兄が仏教の教義を熟知させた。彼の顔には戦士の入れ墨のように日焼け止めが塗られている。サーブ&ボレーをするコート外の王。私はその試合の時、実際にニューヨークにいたが、後でまた見られるように録画したのだ。ラフターが浮かべていた徹底的な集中の表情を、今でも思い出す事ができる。「僕はとにかく精を出し、自分のゲームをしなければならない」と、プレーが始まる前に彼はアナウンサーに語る。「もし彼が僕のゲームで僕を負かす事ができるなら、まあ、ただ彼に脱帽しなければね」

ラフターはキャリア初期には非常に貧しくて、会場のロビーで夜を過ごした事もあった。その彼が5セットで勝利する。6-7、6-4、2-6、6-4、6-3。彼は数日後、優勝を成し遂げるに至った。致命的な病気を抱える子供たちのための財団に賞金全額を寄付して、ナイスガイ的な終了を証明した……ネット際で。