テニスライフ・マガジン
2007年8月号
名誉の殿堂:ピート・サンプラスは初めてホームに帰る
文:Bill Dwyer




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黒髪の巻き毛は、少し後退してはいても同じだろう。アスリートらしい足どりも、そして少し前屈みの肩も。

しかし、7月14日にロードアイランド州ニューポートで「国際テニス名誉の殿堂」に迎え入れられるのは、異なったピート・サンプラスであるだろう。

それはハーバードの卒業生とも言える物の見方を持つ35歳の男だろう――15年間、世界じゅうのテニスコートで激しく戦ってきた学校から彼は卒業する。35歳の男は、偉大な事を成し遂げ、そうすべき時に去ったという事を心地よく承知している。

「引退を決めた事に、何の後悔もない」と、最近行ったテニスライフ・マガジン誌のインタビューで彼は語った。「皆は長い間、いつカムバックするのか、カムバックするのかどうかと僕に尋ねてきた。だが結局、これ以上ロードに出る気持ちはなかった」

2002年USオープンで、彼にはもはやビッグタイトルを勝ち取る余力はないと思い込んでいたテニス界に、サンプラスは衝撃を与えた。彼は決勝戦でアンドレ・アガシを下し、14回目となったグランドスラム・トロフィーを手に入れた。記録である。そして二度と ATP 大会でプレーしなかった。

彼が少なくとも1年間、多分もっと長く、苦悩しなかった訳ではない。最も辛かった時期は、ウインブルドンが近づいてくる晩春と初夏の数カ月だった。彼はその大会に7回優勝したのだ。

同様に手っ取り早く、あるいは容易に快適な他の道を見つける事もなかった。

「僕はたくさんゴルフをした。日々がいわば通り過ぎていくのを見ていた。ハンディキャップを4まで下げた。それは良かったが、しばらくすると、自分がただゴルフをしているだけだと気づいたんだ。身体はやわになり、そして実際に痛みや疼きが懐かしくなってくる。また少し汗をかきたくなってくるんだ」

同じく彼はまめにおむつを替え、妻で映画スターのブリジット・ウィルソン、2人の幼い息子とビバリーヒルズの自宅で過ごした。カリフォルニア州インディアンウェルズ大会の部分所有権など、若干の投資も行った。

それでもなお、人生はあてどなく過ぎていった。

「ぎくしゃくした感じの時期だった」と彼は認めた。

もはや、それはない。とても馴染んだものが戻ってきたのだ。それは彼が必要とする規律だった生活を再びもたらした。それが彼をどれほど心地よくしたかを思い出させた。

テニス。

「ワールド・チームテニス( WTT )で少しプレーしたが、それがコートに戻るきっかけだった。それからジム(クーリエ)が電話をしてきて、シニア大会に誘ったんだ。今はうまくバランスの取れた日々だ」

昨年、カーソンのロサンゼルス郊外で開催された女子ツアー大会の月曜夜に、プロモーターがクーリエ - サンプラスのエキシビションを組み込んだ―― WTA ツアーでは異例の事だった。大して宣伝もされなかったが、会場はほぼ満員となった。駐車場は満杯になり、トイレには長蛇の列ができた。そして男子であれ女子であれ、どんなツアー大会の月曜夜よりも活気があった。

そして、ああ、サンプラスはなんというショーを披露した事か。彼は感覚を取り戻すために、WTT でいささかプレーしてきただけだった。そして突然、そこにはビッグサーブを放ち、ネットへボールを追い、効果的なハーフボレーをし、そして猫のように敏捷にコートをカバーする事のできるアメリカの男子テニスプレーヤーがいたのだ。クーリエさえも、素晴らしい打ち合いの最中に、およそ8,000人のファンは特別な何かを与えられているという事実を楽しんでいるようだった。

サンプラスは語った。「うん、覚えているよ。あの夜はかなり良い気分だった」

間もなくゴルフが削減され、テニスコートは再びホームになった。サンプラスは自宅にコートがあるので、それは字義通りのホームである。

時をおかず、週に3〜4日テニスをする事が彼の日課となっていた。それは多分、彼以前の誰もした事のなかったゲームだった。現在、半ばレクリエーション、半ば競技的という取り組み方は、まさにが医者が指示するものであった。彼には今、好きなスポーツと、ツアーでは決して許されなかった類の事をする時間があった。

最近サンプラスは、アテネでシニアツアー大会に出場した。彼の両親はギリシャ系だが、サンプラスは一度もその国に行った事がなかった。アクロポリスを見た事がなかった。2,000年前の道を歩いた事がなかった。古代に造られた長方形スタジアムの観覧席に座った事がなかった。それは今でもアテネの大通り脇に存在し、1896年に始まったオリンピックの象徴的存在である。

以前のピート・サンプラスなら、ツアーで訪れたとしてもテニスの事だけを考え、できるだけ長く大会に残ろうとし、そしていちばん早い飛行機で去っただろう。今回は、サンプラスは今年70歳になる父親と、母親を伴った。彼女は生まれ故郷を訪ね、旅の間じゅうギリシャ語を話していた。

「素晴らしかったよ。また来るだろう」とサンプラスは言った。

もちろん、彼は決勝戦でトッド・マーティンを下して大会に優勝した。

数カ月前、ロジャー・フェデラーがインディアンウェルズに出場するため南カリフォルニアにやって来た時、サンプラスは自宅にスイス人チャンピオンを迎えた。彼の訪問をこの上なく楽しんだとサンプラスは語った。

以前のピート・サンプラスなら、1993年から2002年の間にウインブルドンで喫した3敗のうちの1つをもたらした選手と、それほど親しくなる事はなかっただろう。フェデラーはほぼ間違いなくこの数年のうちに、彼のグランドスラム記録を超える。それは彼が何らかの競争心を手放した事を意味するのだろう。

新しいピート・サンプラスは、そんな事を気にかけない。

「僕たちは素晴らしい時を過ごしたよ。僕の自宅で2日間プレーしたが、2日目には3時間の練習をした。これまで話をする機会がなかったが、彼はとても素晴らしい男だと知ったよ。僕たちは同じようなユーモアのセンスを持っている。ドライで皮肉な感じのね」

「僕らは色々な事について冗談を言い合った。彼が僕にもうしばらく記録を楽しむ時間をくれたらいいなあ、とかね。ヘンリー・アーロンのホームラン記録は70年代に樹立されたんだから、僕にも少なくとも30年間はくれるべきだよ、と彼に言ったよ」

スコアは保存していない――あるとしても、誰も知る事はない――とサンプラスは言った。そして、サンプラスはいつものサーブ&ボレーをしていたが、あるチェンジオーバーの時に、「僕はこういうプレーにそれほど会わなくて済むんだ」と、フェデラーは笑って言ったと語った。

サンプラスは練習試合の間にある事が分かったと語った。「僕は今でもかなり上手くサービスをキープできるよ」

かつてグランドスラム記録は、サンプラスにとって神聖な追求であった。今は、フェデラーほどの能力と品性を持つ者が、それを超えそうだという事を、彼は嬉しく思っている。

「ロジャーは僕がしたように――戦いの場に出てプレーするだけだ。記録は破られるためにある。僕は(記録が破られないようにと)相手側に肩入れする類の人間ではないよ。誰かに破られるのなら、ロジャーこそが最適任だ」

サンプラスはまた、自分の成功は独力で成し遂げられたのではないと理解している。

最近訪れたギリシャと同様に、サンプラスは国際名誉の殿堂に行った事がない。

「家族全員(兄弟姉妹、父母)で行くつもりだ。僕たちは皆それを楽しみにしているよ。家族が楽しむ素晴らしい時であり、僕にとっては自分の成した事について振り返る良い機会になる」

そして彼が今でもしている事について。

式典の翌日、サンプラスはニューポートの芝生コートでエキシビション・マッチを行う。誰と対戦するにせよ、きっと彼はサービスを今でもかなり上手くキープするだろう。