テニスライフ・マガジン
2007年8月号
ピートが史上最高のプレーヤーである理由
文:Tom Gullikson


何がピート・サンプラスを歴史上で最も偉大なプレーヤーにするのか?

私は少し偏っている。ピートは素晴らしい友人であり、私の双子の兄弟ティムは彼のコーチだったからだ。

だが私の意見では、すべては彼のサービスゲームに端を発する。疑いなく、彼はテニス界最高のセカンドサーブを持っていた――史上最高の。彼は全くもって大胆不敵で、セカンドサーブでラインを狙う事を恐れていなかった。

ピートは決勝戦でジム・クーリエを下し、1993年にウインブルドンで初優勝した。私はクーリエがイギリスへ行く前に、フロリダの芝生でジムに10日間の指導をしていた。そう、ピートは4セットでその決勝戦に勝利した。そして彼のセカンドサーブの平均スピードは時速100マイルだった。ダブルフォールトは4回しか犯さなかった。

クーリエは私に語った。「やれやれ、ガリー、僕はかなり上手くプレーしたと思ったが、試合を通して全ポイントで2つのファーストサーブを打つような男を倒すのは厳しいよ」と。

それがテニスの歴史でピートと他の皆を分けるものだ。セカンドサーブの絶対的な質の高さ、それに臨む大胆なアプローチ、そして彼が抱いていた大いなる自信。彼はまた、サーブを読ませない事ができた。アドコートで、彼はキックサーブを打つかのようにトスを後方へ上げ、それからセンターにサーブを叩き込んだ。彼はちょっとした小粋なトリックを隠し持っていて、ビッグポイントでそれを披露したものだった。

ピートはまた、失うものは何もないという気構えで自分を追う男が好きだった。6年連続で世界ナンバー1にランクされる者は、まずは確実な本命となる。より低いランクの選手は、失うものは何もないのでハイリスクなテニスをするものだ。いずれにせよ負けるのだと承知しているから、彼らは伸び伸びとプレーした。厳しいショットを打ち、攻撃的にならない理由があるだろうか?

人によってはそういった挑戦を好まないだろうが、ピートは歓迎した。彼は言ったものだった。「自分が勝つと思われているのを承知している。僕はいいプレーをすると知っている。僕が勝つべきだ。こういう立場にいるのを楽しんでいるよ。男たちが僕に最高のショットで挑んでくる立場をね」

それがチャンピオンの思考方法だ。ナンバー1の立場を受け入れなくてはならない。

驚くべき事に、あまり感情を見せないからと、ピートはいささか過小評価されていた。面白みがなく、退屈だと思われていた。彼はテニスコートでいつも素晴らしかったから、人間的でないと思われていたのだ。



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涙とタイトル

ピートの人間性が明らかになったのは、1995年のオーストラリアン・オープンであったと思う。私の兄弟、彼のコーチには4つの脳腫瘍があるらしいと我々が知った時だった。精密検査を受けるために、私はティムに付き添ってシカゴの自宅へと飛行機で戻った。一方ピートは、準々決勝でクーリエと対戦していた。

ピートが2セットダウンから挽回し、2セットオールとしたところで、1人の観客が叫んだ。「コーチのために勝て!」と。

ピートは取り乱し、そして泣き始めた。止める事ができなかった。クーリエが呼びかけた。「ピート、もし君が今日これを終えられないのなら、明日やってもいいんだよ」

ジムの偽りない気持ちだった。だがピートはその時、彼が少しふざけていると感じたのだろう。ピートは涙と感情的な動揺を抱えたままエースを放ち、最終的に勝利したのだった。

その光景は、テニスファンの目にピートの人間性を焼き付けた。人々が彼の人間的な一面を初めて知った時だった。2002年USオープンで、彼がスタンドを駆け上がって妻のブリジットを見いだし、強く抱きしめた時に、ファンは再びそれを見た。

コート上で多くの感情と激しさを持たずして、偉大なチャンピオンにはならないのだ。

素晴らしい競技者

素晴らしい競技者になる事は、最初からティムがピートを手助けした事柄の1つだった。当時ピートは、いかにボールを打つかにこだわっていた。しかしティムは彼に教え聞かせた。「いいかい、ボールの打ち方は日々少しずつ違うものなんだ。ゲームとはそういうものだ。君はツアーでも指折りのアスリートだ――動きも素晴らしい、優れた技能を持ち、どんなショットでも打てる、攻撃もできるし防御もできる、ジャンプもできる」

「そこで、君が望むほどボールをクリーンに打っていない日は、シャツからホワイトカラーを外し、ブルーカラーを身につけてくれ。そして君のショットメイキングでではなく、運動能力と競争心で相手を負かしてくれ」

それが基本である。「勝利」を得る途を見いださねばならないのだ。ピートはそれをする事が得意だった。

クレーでのピート

ピートがフレンチ・オープンで一度も優勝しなかったという事実は、彼をベストのクレーコート・プレーヤーとは呼ばせない。しかし彼がクレーでプレーできなかったと見なすのは馬鹿げている。

1996年、私の兄弟が亡くなった年に、ピートはフレンチ・オープンで準決勝に到達した。それはティムが亡くなってから、およそ3週間後の事だった。準決勝への道のりには、3人のフレンチ・オープン・チャンピオンがいた――トーマス・ムスター、セルジ・ブルゲラ、クーリエ。そしてエフゲニー・カフェルニコフと対戦した時には、彼には何も残っていなかったのだ。ほぼいつも倒してきた相手に対して。それはピートがフレンチで優勝すべき年だった。しかし彼は、ただガスを使い果たしたのだ。

訳注:実際には、ムスターとは対戦していない。ピートの対戦相手は1回戦マグナス・グスタフソン、2回戦セルジ・ブルゲラ、3回戦トッド・マーチン、4回戦スコット・ドレーパー、準々決勝ジム・クーリエ。

人々はピートがイタリアン・オープンで優勝していた事を覚えていないかも知れない。だが事実は、彼がクレーでプレーできた事を証明している。

合衆国が最後にデビスカップで優勝した時、私が監督だった1995年に、ピートはクレーでシングルス2試合に勝ち、トッド・マーチンと組んでダブルスにも勝利した。しかし、痛みなくしては果たせなかった。最初の試合の後に彼は全身ケイレンを起こし、点滴で水分補給しなければならなかった。

翌日、私は彼をダブルスに起用した。そして彼らはストレートセットで勝利したのだ。それはデビスカップ決勝の歴史における、真の奮闘の1つだった――ピートは最も不得手なサーフェスに臨み、事実上デビスカップ・タイトルへと我々を導いてくれたのだ。途方もない奮闘だった。

ピート対ロジャー

ピートとロジャー・フェデラーを比較するに際して、ピートはチャンピオン達を倒していた事を忘れてはならない。フェデラーが定期的に対戦するデビッド・ナルバンディアン、ニコライ・ダビデンコ、アンディ・ロディックといった男たちにしかるべき敬意を表するが、ピートは多数のグランドスラム・チャンピオン――ボリス・ベッカー、ステファン・エドバーグ、イワン・レンドル、アンドレ・アガシ、クーリエ――を打ち負かして、タイトルを獲得してきたのだ。ピートはフェデラーが倒してきた者たちよりも、はるかに優れたチャンピオンを倒さなければならなかった。

振り返ってピートの時代以前にプレーした人々に目を向けるなら、彼らは四大大会の3つが芝生で行われた時代にプレーしていた。もしオーストラリアン・オープンとUSオープンが今でも芝生で開催されていたら、どうなっていただろうか? ピートは幾つのスラム大会で優勝しただろうか? 彼のグランドスラム・タイトル記録は、14の合計より多かっただろうか?

彼は8年間で7回ウインブルドンで優勝した事を考慮してほしい。その年月に彼が負けた唯一の試合は、リチャード・クライチェク戦だった。

私の考えでは、フェデラーが史上最高としてピートを追い抜こうとしているのなら、彼はグランドスラム・タイトルを15獲得するか、あるいは、フレンチ・オープンを含めて14を獲得しなければならない。だからといって、私がフェデラーをより優れていると考える訳ではない。それはただ、史上最高について人々が吟味する際に、それが厳密な解釈に従った場合の、ナンバー1としてピートに取って代わるであろう事を意味する。

しかしながら、私はそれでも、ピートははるかに優れた選手たち――チャンピオンを打ち負かしていたと固く信じている。1試合に限れば、私は今でも、世界の誰に対してもピートの最高のテニスを上に据えるだろう。