テニスライフ・マガジン
2007年8月号
サンプラス セブン
文:Bud Collins


メヒシバ(芝生や畑の雑草。crab grass)について聞いた事はある。

しかし芝生のカニ(grass crab)については? それが初めてウインブルドンを迎えた頃のピート・サンプラスだった。子供がホウレンソウやブロッコリーに対するように、芝生に対してつむじ曲がり(crabby)だったのだ。青物は欲しくない。取り去って。

「僕は芝生(のサーフェス)が嫌いだった。嫌でたまらなかった」と、ピートは数週間前にボストンで語っている。彼はその地で、プロモーターでプレーヤーのジム・クーリエが率いる先輩たちに交じって5年間のさびを落とし、キャリアに再点火――のようなもの――をした。ペトル・コルダ、ティム・メイヨット、ジョン・マッケンロー、トッド・マーチンを下して、彼はアウトバック・チャンピオンズカップで優勝した。

「芝生は不当なサーフェスだと思っていた。バウンドはひどいか、あるいは存在しない、とね。僕はそれに関わりたくなかった」
10代の頃の青物恐怖症について話をしながら、ピートは微笑みを浮かべている。最も偉大なグラスコート・チャンピオンになるため、芝生で青物に精を出すという恐れを克服した男の微笑みを。7つのウインブルドン・タイトルがそれを証明している。

サンプラスが芝生を嫌う? それはマリア・シャラポワがバナナと写真撮影を諦める、あるいはジョージ・W・ブッシュが真実を告げるのと同じくらい馬鹿げた事に聞こえる。もちろんピートはそれを乗り越えた。しかし少々時間がかかった。

1989年にウインブルドン前哨戦が行われたベカナムで、彼がどれほど悲惨な様子だったか私は覚えている。もちろん、雨が降りしきっていた。それもしばらくの間。雨がやむと、彼は奇妙な、水浸しのコートでプレーしなければならなかった。

彼はそれとウインブルドン・デビューをやり過ごし、待ちきれないかのようにアメリカのアスファルトに戻った。ピーナッツバターと同じくらい慣れ親しんだサーフェスへと。

初めてのウインブルドン試験は、1時間ちょっとで失敗した。「何がどうなっていくのか分からなかったよ」とピートは言う。81位だった彼は、244位のトッド・ウッドブリッジに7-5、7-6(7-5)、5-7、6-3で放逐された。

これはウッドブリッジがマーク・ウッドフォードと名誉の殿堂ダブルス候補者になるよりも、かなり前の事だった。それでも、オーストラリア人の彼は芝生の何たるかを知っていた。

次の年も違いはなかった。第12シードのピートは、41位だった南アフリカのクリスト・バン・レンズバーグに7-6、7-5、7-6で一蹴され、素早く消えた。しかし2カ月後、後に最も重要なライバルとなるアンドレ・アガシに6-4、6-3、6-2で勝利し、サンプラスはUSオープンで最も青くさい優勝者となった。

なんと馬鹿げた反転か――メジャー大会のスタートで失敗した男が、次の大会には一番でゴールを切るとは!

だが、彼は果たしてウインブルドンで試合に勝とうとしていたのか? はい。1991年、第8シードの彼は、印象の薄いブラジル人の予選上がり、140位のダニロ・マルセリーノを6-1、6-2、6-2でカモったのだ。しかしながら、カリフォルニア出身の24位、デリック・ロスターニョが6-4、3-6、7-6、6-4でパレードを打ち切った。

1992年までには、ピートは緑の芝生で心地よさを感じ、ビッグ W は自分のおとぎの国になるかも知れないと思い始めていた。

「多くの事が解決したんだ」と彼は言う。「サービスは問題なくキープしていたが、ブレークが問題だった。コーチのティム(ガリクソン)は、僕のテイクバック、特にバックハンドのテイクバックを小さくして、さらにチップ&チャージ、セカンドサーブを攻撃するように言った。僕は21歳になろうというところで、分別もついてきていた。事が上手く運ばない時でも、我慢できるようになっていた。今や芝生は問題でなく、かなりいい感じだった」

92年、第5シードの彼は、アンドレイ・チェルカソフ、ウッドブリッジ(快い復讐か?)、スコット・デイビス、アルノー・ブッチを続けざまに勢いよく下し、前年度チャンピオンのミハエル・シュティッヒを6-3、6-2、6-4で王座から退けた。だが準決勝の真剣なサーブ合戦では、ゴラン・イワニセビッチについていけず、6-7、7-6、6-4、6-2で敗れた。そしてタイトルはアガシの手に渡った。「僕はまだタイブレークに問題を抱えていた」とピートは言う。

にも関わらず、93年には全てが適切なところに収まっていた。7つのタイトルの1番目は、ピートに向いた天候の下で達成された。乾燥し、暑い。それは16年ぶりに全く雨が降らないウインブルドンだった。準々決勝では強敵アガシに勝利を奪われそうになったが、6-2、6-2、3-6、3-6、6-4でチャンピオンを退けた。次にもう1人のチャンピオン、ボリス・ベッカーを7-6、6-4、6-4で下した。

いずれにせよタイトルはアメリカ人に行く事になり、ピートはタイブレークで大いなる進歩を見せた。彼はかろうじて最初の2セットを勝ち取り、次のセットではぐらついたが、第4セットでは持ちこたえて、もう1人の同国人ジム・クーリエを7-6、7-6、3-6、6-3で下した。

サンプラスの英雄伝説が始まった。1993年から、彼は由緒あるテニスの庭で、60試合のうち3回しか負けなかった。3タイトルと25試合連続勝利は、1996年にその年のチャンピオンとなったリチャード・クライチェクによって断ち切られた。さらに4タイトルと31試合連続勝利は、2001年に他でもない19歳のロジャー・フェデラーによって終わりを迎えた。

感慨を込めてピートは言う。「自分がビョルン・ボルグの5タイトルを超えるとは、考えられもしなかったよ。ウインブルドンは僕にとって、とても親愛なるものになった。キャリアの最高と最低がそこにあったと思う。2000年に、両親が見ている前で記録を破ったのは、本当に素晴らしい事だった」

ロイ・エマーソンが33年間保持していた12のシングルス・タイトル記録を追いかけてきて、もう1人のオーストラリアの人気者、パトリック・ラフターを6-7、7-6、6-4、6-2で下し、13回目のタイトルを獲得したのだ。ラフターは(第1セットを取り)第2セットのタイブレークを4-1とリードし、自分のサーブを迎えていたが、闇が迫る中で、ピートは劇的な逆転勝利を収めた。

「だが」と彼は言う。「ウインブルドンの最後の試合(2002年の2回戦)で、予選上がりのジョージ・バストルに敗れたのは辛かった。それが最低の時だった。そんな風に終わらせたくはなかったよ」
ああ、それはMr. ウインブルドンを狭苦しい2番コート、悪名高い墓場へ追いやるという、驚くほど礼儀を心得ぬスケジューリングだった。彼はセンターか1番コートに属する選手だったのに。ボルグは1976年にチャンピオンになってからは、2番コートに配された事は一度もなかった。

気にするな。

その後まもなく、ピートはUSオープンで14回目のメジャー優勝を遂げる事で最大のさよならホームランを放ち――そして比類ないやり方で、幸せに歩み去ったのだ。いかなる偉人でも、このような高みにおいて去った者はいなかった。

おお、はい、ウィリアム・ レンショーを崇拝する人たちが、英国人のウィリーが1881〜1886年と1889年で、同じく7つのウインブルドン・タイトルを獲得したと指摘するのは承知している。確かに。しかし、なぜか私は、彼が芝生の上品さをツタウルシと見なしていた SW19における史上最高スーパーマンとしては、ピートに軍配を上げる。

絹のように滑らかなサンプラスの偉大さは、彼が対戦してきた相手の驚くべき質の高さによって測る事ができる。ピートは戦い、支配していた。――6年連続ナンバー1在位記録を覚えているか?――これらのメジャー・チャンピオン達を。アガシ、クーリエ、コルダ、マイケル・チャン、ステファン・エドバーグ、ベッカー、エフゲニー・カフェルニコフ、クライチェク、ラフター、イバニセビッチ、シュティッヒ等を彼らの全盛期に。同じくベテランとなったイワン・レンドル、ジョン・マッケンローを。他の誰が、このような殺人者の集団と対戦してきただろうか?

私は彼が成長し、芝生に対する気難しさを乗り越えた事が嬉しい。ある人々はマリファナ(grass)をふかす。ピンポイントのサーブと破壊的なボレーで、ピートはそれ(grass)を煙にしたのだ。