サンデー・タイムズ
2006年9月10日
SW19を夢見て
(SW19は、ウインブルドンの番地)
文:Andrew Longmore
(ビバリーヒルズにて)


ピート・サンプラスは認める。引退をして、ウインブルドンの
緑の芝生が自分を呼んでいるのを感じる、と


ピート・サンプラスのキャリア最後の素晴らしい試合は、彼の頭の中で行われている。毎夏、ウインブルドンを見ると、彼は声を聞き、それから自分のラケットを探しにいく。他の50週間は、彼は元チャンピオンの1人にすぎない。ゴルフをして、週に1度のポーカーを楽しんで、上の息子を昼食に連れ出す。問題は、甘美な声が、聞きたいと望む声が、彼はまだ最後のウインブルドンでプレーできると囁きかける声が、大きくなっていく事だ。さらに問題なのは、もう一方の、より静かな声が、それは真実だと知っている事である。

今、サンプラスとのインタビューは、質問と答えというよりは会話である。隔絶、真の生活へと戻る期間は終わり、14回のグランドスラムと7回のウインブルドンのチャンピオン――286週間にわたる世界第1位――は、彼がかつて支配し、今そんなにも懐かしむテニスとは何なのかを、正確に再発見している。たいていの場合、彼は敗戦の苦痛にうまく対処できる。しかしウインブルドンの間は、痛みは持続する。

彼は選手という選手がコート後方にステイバックしているのを見る。ヨナス・ビヨルクマンが準決勝へ到達し、クレーコーターのラファエル・ナダルが決勝へ進出するのを見る。そして大いに考える。彼、サンプラスなら、どんなダメージを与えられるだろうかと。

もし彼が戻るとしても、決まり悪さは無関係に見える。2002年に2番コート――いわゆるチャンピオンの墓場――でジョージ・バストル、予選通過者に負けた、彼の最後の試合以上に無念なものなどあり得ないのだ。彼は今でもアンドレ・アガシより若い。アガシはこの夏、36歳で最後のウインブルドンを戦った。

そこで、言葉はただ滑り出てくる。サンプラスは言う。「ナダルは素晴らしい選手だが、優れたサーブ&ボレーヤーを彼と対戦させると、かなりいい感じになる筈だ」
それでは、芝生では彼に対して、あなたにもチャンスがあると想像するのか? 「うん、今でもね。もし僕がトレーニングしたら……そういう想像をしたよ。再びウインブルドンでプレーするみたいにね。そういう想像を排除しなかった。自分がカムバックするつもりだと言う訳ではないが、今あそこでプレーしてみたいと思う事があったね」

想像を排除しなかった? 「まあ、想像してみたよ。皆がどんな風にプレーしているか、芝の上でパリみたいにステイバックしているのを見て、そして僕がウインブルドンを恋しく感じるという事実、負けるべきでなかった相手に、2番コートであんな風にまずい形で終わったという事実がある。あれは未だに苦い思い出として残っている。だから考えるんだ。『わぅ、もう1回』ってね。そしてもし自分がそれを望んだら、きっとできるだろうって。だが、そうするためには、もっとすべき事があるだろう。実際には、そういう事は起こらない」

ラリーの最後はバックハンドのダウン・ザ・ライン、フォアハンドボレーとなるだろう。しかし、もっと多くのポイントがある。この夏、サンプラスは再び競技テニスを始めた。彼はフェデラーの新しいラケットを注文した。それは彼が全盛期に使っていたウィルソン・プロスタッフよりも、大きくてパワフルだ。そして、最後にテニスボールを打ってから3年後、南カリフォルニア大学の学生とボールを打ってみた。ラケットをボールが擦る優しい音を聞くのはどれほど快いか、かつての仕事場に戻る満足感がどれほど気持ちよいか、彼は忘れていた。

彼は言う。「率直に言うと、僕はかなり退屈していて、落ち着かなかったんだ。たくさんゴルフをし、ポーカーをし、娯楽を楽しんできた。そしてクリスマスに、妻と話をした。僕は少しばかり元気がなくて、彼女はそれを理解していた。そして僕は決心したんだ。もし機会があったら、再びプレーする事を考えてみようとね」

「それで僕は今年、行動を開始する事にした。するとヒューストンから電話があり、エキシビションでのプレーを持ちかけられた。僕は既に1カ月半くらいボールを打っていて、電話を終えた時は興奮していたよ」

「そのエキシビションでプレーして、次にビリー - ジーン・キングの友人から連絡があった。その人は僕が20歳くらいの頃から、チームテニスへ参加させたがっていたんだが、再び誘ってくれたんだ。それで僕はプレーする事に決めた。準備にあたるものを探していたんだ。僕は生活に組織だったものを求めていた。自分の中に生活の要素とでもいうものを感じたよ」

サンプラスはサクラメントの家具店で記者会見をし、ニューポートビーチ・ブレーカーズの一員として、コネチカット州北部のゴルフコースにある2,500席のアリーナでデビューする事を告げた。さらにセントルイスのフォレスト・パークにあるドワイト・デイビス・メモリアル・テニスセンターを満員にした。彼はアイダホ州ボイシとアトランタでもプレーした。

カリフォルニア州カーソンでは、彼はジョン・ポール・フルテロという名前の男に0-5――4ポイント先取の5ゲーム制――で負けもした。だがオレンジ郡のホーム・デポ・センターでは、親友で長年のライバルでもあったジム・クーリエを、64分、6-4、6-1で破った。そしてまともなプレーヤーに戻ったように感じた。彼の最初のポイントは、時速125マイルのエースだった。「彼はいいサーブを打ち、いいリターンをした。その2つが合わさると、彼は、そう、ピートだね」とクーリエは語った。

サンプラスは言う。「第一歩はとても厳しかった。負ける覚悟ができていても、プライドを抑えられないんだ。ここ、ロサンゼルスでジムと対戦した時は、僕は本当に良いプレーをした。彼はライバルだからね。僕はかつてのように良くなろうとはしていない。以前ほどうまく動けないし、シャープでもない。以前ほど決然として踏み止まろうともしない。誰かに負けても、気にしないよ」

「だが、僕の内心は今でも競争心が強い。年の後半にもう少し試合(ハリケーン・カタリナの犠牲者を援助するチャリティ試合を含めて)をする。それが今のところの予定だ」


アガシがニューヨークで引退した後、サンプラスは電話をしてメッセージを残した。数日後、アガシから電話があった。双方にとって意義深い時間だった。フラッシングメドウにおけるアガシの涙の引退は、アメリカン・テニス「黄金時代」の終わりを告げていた。1989年フレンチ・オープンでの、17歳だったマイケル・チャンの驚くべき優勝をかわぎりに、クーリエ、サンプラス、アガシが続き、17年間に4人の間でさらに26のグランドスラム優勝を遂げたのだった。サンプラスはアガシの引退シーンに感動し、電話でそう言った。

だが祝福と激励のためだけに電話したのではなかった。「僕たちが対戦した試合(計34試合。サンプラスの20勝14敗)を、どれだけ楽しんだかを言いたかったんだ。僕たちが世界の1位と2位だった時には、親しくなるのは難しかったけれど、いつだってお互いの事が好きだったし、尊敬し合っていた。僕たちは違ったタイプだけれど、共通点もたくさんある。彼には2人の子供がいて、僕にも2人いる。僕はラスベガスへ行き、彼はロサンジェルスに来る。かつての事は忘れて、今からでも友情を育んでいったらいいよね。それで連絡を取り合う事にしたんだ。2人の男がただ話をするって感じだったよ」

アガシは今週、何を感じているでしょうか? 「ホッとしているだろう。終わったからね。かなり身体を痛めていたし。背中が痛み、腿の筋肉は疲れ切っていて、すべてが壊れていたんだ。彼はもう、それら全てに対処しなくていいんだ。テニスの事、食事・睡眠、練習――あらゆるストレスについて心配しなくていいんだ。これからは財団の事や、子供たちと一緒に過ごす事に熱意を燃やすだろう。そして、初めは寂しいと思わなくても、徐々に寂しく感じるようになる。そういう感情のサイクルを経験するだろう」

アガシは身体に限界が来たが、サンプラスの場合は、まず気持ちに終わりが来た。「心だよ」と彼は訂正する。不名誉なウインブルドン敗退から2カ月後、2002年のUSオープンで14回目のグランドスラム優勝を遂げると、サンプラスはラケットを置き、再び取り上げる事はなかった。もはや報いには、それに伴う犠牲を払うだけの充分な価値がなかった。彼には証明すべき事は残っていなかったのだ。翌春3日間だけ、彼の感情をかき立てる唯一の大会、ウインブルドンへ出場するつもりで練習をした。だが3日目の練習半ばで、コーチのポール・アナコーンに言った。「もう本当に、終わった」

彼の引退は、予想も予定もされていなかった。

アガシはいつも、自分のテニス・キャリアを、人生を通しての旅になぞらえた。サンプラスは、そんな風に哲学的に考えたりしなかった。あるいは、彼の気質やイメージは、アガシのようにカメレオン風ではなかった。サンプラスは19歳という年齢で、USオープンに優勝する完全に一人前のチャンピオンとして登場した。そしてその後、彼のテニスへの取り組み方はあまり変わらなかった。自分でも認めているが、彼は同じ習慣を守り続ける人間だった。毎年同じ大会に出場し、同じホテルに滞在して、同じレストランで食事をした。「同じたわごと、違う都市」はツアーの非公式なモットーだった。しかし、アガシに負けず劣らず、サンプラスは自分のテニスを通して個性を育んでいった。

初めは内気で、時に不機嫌で、彼は退屈だと批判された。クーリエは才能に欠けるブルーカラーのガリ勉で、アガシはこれ見よがしな偽物だと非難されたように。

「何が望みなんだい?」かつてイワン・レンドルはニューヨークでマスコミに尋ねた。「ピートは、振る舞いも良く、素晴らしいテニスをし、そして白いウェアを身につける、理想的な子供だよ」

レンドルは正しかった。だが、曖昧な微笑みの下に本物の心が脈打っている事を人々が理解するのには、幾つかのウインブルドン・タイトルが必要だった。引退したばかりの頃、彼はテニスについて語る事も、見る事も、あるいは読む事もしたくない、ただ「減圧――リラックス」したいと言っていたが、テニスへのサンプラスの情熱は色褪せないままだった。

彼は1時間半以上にわたる会話で、今日の選手の精神的アプローチに自分がどのくらい貢献できるか、プレーヤーとしてゴラン・イワニセビッチがいかに彼を恐れさせたか――「彼は僕をコートの外に吹っ飛ばせると知っていたよ」――、そしてウインブルドンで優勝する真の報奨は、トロフィーによってではなく、帰国途上の飛行機で読むイギリスの新聞で、自分の勝利に関する全ての記事を読んだ時にもたらされる、等について語る。

「マスコミの幾つかは、僕やテニスを困らせるような事を言っていたね。発言を集めたのではなく、演劇について書いているみたいだった」と彼は言う。「そしてフロリダへ帰ると、僕はチェッカーズという名の、油っこいハンバーガー屋に行って、お祝いの食事を食べたものだったよ」

大きいバボラ・ラケットを使用し、グラウンドストロークを強打する時代に、テニスの将来に関する彼の懸念もまた、明白である。現在、サーブ&ボレーヤーは公式に絶滅しているか、あるいはティム・ヘンマンがいなくなると絶滅するだろう、と彼は考えている。今年のウインブルドンが終わった後、どうなっているのかを尋ねるため、彼はアナコーンに電話をした。「彼は、ボールが少し遅くなっていたと言ったよ。だが、僕はそうは思わない」「サーフェスは今でも芝生だ。皆がステイバックしているのには驚きだ。サーブ&ボレーは1つの技であり、それは20歳の時に学ぶものではなく、子供の頃に学ぶべきものだ。しかし、それは難しい。何度もパスで抜かれる事を経験するからね。ステイバックする方が、より容易いよ」

「ロジャー(フェデラー)は伝説的選手になりつつある。彼は動きが素晴らしく、瞬時に守りから攻撃へ転じる事ができる。たとえ彼が明日テニスを辞めたとしても、この世代を誰よりも支配してきたと言えるよ。ナダルは素晴らしい選手だし、僕が見るところ、他の選手たちもかなり良いけれどね」

「だがロジャーでさえ、ウインブルドンでステイバックしている。僕が彼と試合をした時は、彼はすべてのボールでネットへ出ていた。僕はいつも、最高のテニスとはコントラストだと考えてきた。ビョルン・ボルグとジョン・マッケンロー然り、僕とアンドレ然り。一方がステイバックし、一方がネットへ詰める、といった風なね。今は、両者ともコートの後方からボールを叩きつけるだけだ」

「ロジャーが自信に満ち満ちていて、自在にプレーしているのを見るのは、とても気分がいいね。だが、もし僕が今、彼と試合をしたら、彼に時間の余裕を与えないようにして、ファースト&セカンドサーブともネットへ詰めるだろう。そしてアンドレとの時と同じように、彼のセカンドサーブをアタックするだろう。誰もやらないが、僕ならネットに出つづけるだろうね」

ウインブルドンでの偉功に対する称賛は多々あるとはいえ、サンプラスは心から感謝した。今年のUSオープンは雨の中断が多かったが、その間に、4年前に彼がアガシと対戦した最後の決勝戦が放映されたのだ。「マッケンローがステキな事を言ってくれた。『たった4年しか経っていないのに、サンプラスがいかに偉大だったかを、みんな忘れている』ってね。ロジャーの事をたくさん聞いているから、そう言われていい気分だったよ」

しかし、フェデラーとウインブルドンは、彼が戻ってくるのを待たなければならない。彼の息子たち、4歳のクリスチャンと1歳のライアンが、その場所の持つ意味を理解できるようになる年齢まで待ちたい、とサンプラスは言う。

「とても懐かしいし、戻ってみたいよ。でも、もう少し待ちたいんだ」
しかし、心の奥深くでは、遅らせるもう1つの理由があるのを彼は知っている。頭の中の声が静まるまで、サンプラスは戻ってくる事ができないのだ。