SI.com
2006年3月7日
ピートと会う
文:ジャスティン・ギメルストブ


サンプラスとの練習後、彼には今でも「それ」があると知った

まず、マルチナ・ヒンギスがカムバックに成功した。それから、ジョン・マッケンローは彼女に続き、先月のサンホセにおけるダブルス優勝で、ATPツアーに戻って大会優勝を遂げた初の「名誉の殿堂」入り選手となった。

史上最も成功した男子テニスプレーヤーは、次になり得るのか?

先週、僕の電話が鳴ると、向こうには馴染みの声が聞こえた。皮肉っぽい、だが目下の者にも遠慮がちな懐かしい声音は、ただちに偉大なるピート・サンプラスである事を明らかにした。挨拶の後、彼は僕に、こちらに来て一緒に練習しないかと招いてくれた。

ピストル・ピートと僕は、長年よく一緒に練習をしてきた仲だった。特に彼が2002年USオープンでキャリアに幕を引く優勝を遂げた後、引退について考えていた時期に。だから、サンプラスが僕とボールを打ちたがる事は驚きにあたらない。そもそも彼がプレーを望んでいる事が驚きだったのだ。
記録である14のグランドスラムを含む経歴の間、ピート・サンプラスの最高の技能の1つはネットでのボレーだった。

あの不確かな時期、彼がキャリアを続ける意志を自身で推し量っていた期間、僕はサンプラスと話す中で、もし彼が己の傾倒と卓越のレベルを維持できると感じなかったら、リラックスするために暫くテニスから遠ざかるだろうと考えていた。サンプラスは最後の大会で優勝し、頂点で終わりを迎え、壮観なキャリアに完璧な終局をもたらした。−−どんな職業においても稀な偉業だ。

引退後、サンプラスはゴルフの腕を研いてハンデを下げ、美しい女優の妻ブリジット・ウィルソンと共に、2人の幼い息子クリスチャンライアンを育てる事に大半を費やしてきた。サンプラスは、走り回ってテニスボールを打つ面白さだけのために練習を楽しむタイプの選手では決してなかった。彼は目的を持って練習した。世界最高の選手としての技能を維持するために練習をした。

この事を知っていたので、サンプラスが引退してから大してボールを打っていないと耳にしても、僕は驚かなかった。だが我々の初練習の間に、これが引退後3年半で4回目のヒッティングだと彼が告げた時には、僕でさえ驚いた。

僕がサンプラスの広々としたビバリーヒルズの邸宅に着くとすぐに、ほとんど何も変わっていない事が分かった。世間の認識とは逆に、サンプラスは描写されるような内気で無口なチャンピオンではない。自分のする事において世界最高となるためには、それなりの度胸と自信が必要とされる。そしてサンプラスも例外ではない。それが、彼がいつも僕との練習を楽しんでいた理由だと思う。僕は実際にも比喩的にも、大きい標的だ。

サンプラスは対決を尻込みするような人間ではない。我々のキャリアにおける業績の明白な格差を指摘して、彼はいつも大いに楽しんでいた。プライベート・テニスコートに向かう途中で、僕に彼のトロフィー・ルームを通らせた時、この事実はいっそう明白になった。もし「美は見る人しだい(蓼食う虫も好き好き)」という古い諺が真実なら、僕は認めねばならない。ちらりと見えた7つのウインブルドン・トロフィーが並ぶ様は、これまでに見た最も美しいものの1つであった。

休憩して水分を補給する度に、我々は談笑し、僕はサンプラスを質問攻めにした。元来、僕は知りたがり屋だが、テニスエリートの傍にいる時には、さらにそうなる。偉大さに興味を抱く事、何が真の偉人を際立たせるのか、あるいは特定の状況を彼らはどう考察するのかと考えるのは、自然な事だと思う。オン、オフコートで交際する機会を得た、3人の最も成功した選手たち−−サンプラス、アンドレ・アガシジム・クーリエの傍にいる時、それはよく僕が感じてきた事だ。

数週間後にヒューストンのエキシビション大会でプレーする事、そしてニューポートビーチ・チームに属し、「ワールド・チーム・テニス」で相当のスケジュール分プレーする事を約束したと、サンプラスは僕に告げた。彼はリラックスし、上機嫌だった。そして我々は2日間、およそ1時間15分ずつ練習した。我々は中央でラリーを始め、次に試合めいたベースライン・ゲームに移行した。1人が球出しし、それからポイントは「ライブ」となり、両プレーヤーがラリーで勝とうとするのだ。

僕はただちに、天性の才能と本能の価値を証明する実験に、自分が参加しているような気がした。サンプラスのタイミングと技量は、今でも見事なものだった。殊に、彼がほんのたまにしかプレーしてこなかった事を考えると。テニスは反復が肝心なスポーツである。タイミングとバランス−−それは偉人と他の者を分ける。サンプラスは偉人の1人だった。今後も常にそうだ。

ここにニュース速報がある。彼は今でもすごい。堅実さはそうでもないが、ショット・メイキングの能力がだ。彼のクロスコート・フォアハンドは反射的と言えるものだった。バックハンドのタイミングは外れていた−−それが常に彼の最も弱いショットであったから、予想はつく筈だが。そして彼は確かに1歩遅くなっていた(ついでながら、それでも僕より1歩速い)。しかし彼のサーブは、今までと同じく流れるようだった。そしてボレーにはキレがあった。

サンプラスは僕が対戦してきた中で最も厳しいボレーヤーだと、いつも考えていた。そして、彼がネットに詰めてきた時、僕はすぐにその理由を思い出した。我々の練習で最も僕を驚かせたのは、今でもすべてが楽々と、そして爆発的に見えた事だ。まるで彼は古い商売道具を納屋から取り出して、さっと仕事を片付けたようだった。そしてそれらは再び、まさにそこにあった。

テニス界にとっては残念な事だが、サンプラスは再びツアーで競う事に全く関心がない。彼の参加はエキシビションと特別なイベントに限定されるだろう。彼は今でもベストに挑戦できる筈だと僕は確信しているのだが。


率直なATPテニスプロのジャスティン・ギメルストブは、SI.com にたびたび寄稿している。



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